第4回 「浄土は本当にあるのか」(2014.10.13.更新)

 あるご門徒からいただいた質問です。この質問を投げかけられたときには、意表を突かれた思いがしました。「弥陀の本願信じて念仏申し、浄土に生まれて仏になる」。これが浄土真宗の教えの根幹であります。であってみれば、私たちにとって浄土は自明のことであり、またなくてはならないものです。それを正面きって浄土は本当にあるのか、と問われてみて、私は一瞬たじろいだのであります。

 それはひとつにはそういう疑念をこれまで自分がもったことがなかったこと、そして、本当にあるといって証明できるような科学的な事実を私が何ももっていなかったことに改めて気づかされたからでありました。そしてそのことはまた、私に自分自身の信心を問うことにもなりました。自分の心持ちをたずねながら、この質問にお答えしてみたいと思います。

 私の信心

 結論から申し上げると、「浄土が本当にあるかないか、私は知らない。」ということであります。実際浄土へ往って見てきたこともありませんので、浄土がどんなふうだかも知りません。経典に説かれてある浄土の相はお話できても、浄土の存在の科学的な証明を求める人に対しては、何も答えることができません。ただ、信じているだけです。お釈迦様から七高僧へ経て宗祖親鸞聖人にまで伝えられた仏祖の伝統を教えの真実の証として信じているのです。

 科学的に証明されないものを、どうして信じられるのか、きっとそう思われる方も多いことでしょう。ですが、私にとっては浄土は科学的に証明された事実として、知識として知っていることが大切なのではないのです。自分自身の生死の帰依処として信じているのです。外に向かって証明しようと思って信じているのではないのです。ですから、浄土の科学的証明など、あってもなくてもどうでもよいのです。そしてまた、浄土があるかないかは、私が決めることではないと思っています。現代に生きるこの私にまで法が伝えられてきたその仏祖の伝統こそが、浄土の真実の証であると考えています。

 自分は必ず死ぬのである

 皆さんの中には、こういう私の言い分を、非科学的で説得力のないものとお感じになるかもれしれません。しかし、反対に私の立場より申せば、なんらかの証明がなければ信じられないという考え方は、まだ真剣に自分の死というものを考えたことがないから言える悠長な立場だと申し上げたいのです。他人は死んでも自分は死なない、いつかは死ぬだろうが、まだ大丈夫だ、そう思っているから、呑気に浄土があるかないかを論じていられるのではないでしょうか。

 自分の力ではどうしても生死の川を渡ることができないと思いあきらめたときに、如来の方から打ち開いてくださった浄土を、どうして自分の力で分別し、思議できるでしょうか。浄土があるかないか、そういう詮索は私どもの仕事ではありません。それらはすべて如来さまの働きなのです。私はそう受け止めています。私のできることは、親鸞聖人によって教えていただいたことを、ただそのまま信じることだけです。

 おわりに 

 今回の質問は、浄土の存在の確証を求め、それによって自身の信心の用にしたいということにあったように思います。ですが、このような自身の智に頼って信を得ようとする態度は宗祖のもっとも戒めたところです。どうか、これを機会に皆さんも自分自身の信心について自ら問うてみてください。