<ブランド宗教なら安心か>
ここ数年オーム真理教、真如苑、そして幸福の科学と、新しい宗教教団がたくさん出てきました。これらの教団には若い人達がたくさん入信しています。皆、そこに今までの人生ではなかった何かを見出したのでしょう。
しかし、これらの若い人達の親御さんは非常に心配しているようです。やはり新しい教団ですし、うちの子供がどうかなってしまうのではないかと心配に思うのでしょう。しかし、これがキリスト教に入信したとか、禅をやるようになったとか、浄土真宗のお念仏を称えるようになったというと、突然そうなったら、それはそれでやはり心配するかもしれませんが、しかし、新興宗教に入ったよりは心配しないのですね。きっとそれらがすでに長い歴史と伝統をもって社会の中に受け入れられている宗教だからでしょう。
長い伝統と歴史が、その宗教の安全性の保証となるというこの考え方は、浄土真宗のご門徒の中にも大いにありそうです。昔からある教えだったら大丈夫だが、新しいのは本物かどうかわからない。その点自分たちは八百年続いてきた浄土真宗の門徒だから心配ない。確かにあることがらが、本物かどうかは、歴史によって確かめられますから、そういう基準で教えの真実性をはかるというのは、必ずしも間違いだとはいえません。
しかし、そうだからといって問題はその教えが本当に自分の今を生きる力になっているかどうかということです。ただ、浄土真宗の門徒であるということだけで安心していても、その教えが自分の今を生きる力になっていなければ、何の意味もありません。宗教は洋服や車などのブランドとは違うのです。持っているだけで価値があるというものではありません。それが自分とどう関わっているのか、それが問題にされなかったら、どんなに長い歴史と伝統を持つ教えであっても、それは死んだ教えです。そういう教えの上に安住していても、それは信心していることにはならないです。
ですから、自分の家が浄土真宗であろうと、どこの寺の門徒であろうと、自分がその真宗の教えを受けてとめていなかったなら、その宗教の持つ伝統も歴史もなんの意味もありません。信心は家がするのではないのです。この私が自分の生き方を問うためにするのです。
<本当の教え>
宗教という言葉で申しますと、霊だとか祟りだとか、呪いだとか、そういうことすべてが含まれてきて、人間の理解を超えた現象はなんでも宗教の中にひっくまれてしまいます。それで何かしら宗教は怖いという感じがするのです。これは無理もありません。
ですからここで大切なのは、本当の宗教を選ぶということです。宗教ならどれも同じではないのです。真実の宗教もあれば、まやかしの、ただ人を迷わすだけの宗教もあるのです。私は仏教こそが真実の教えであると思っていますが、仏教の名をかりて人を霊や祟りで脅かす教えもあります。しかし、それは本当の仏教ではありません。仏教には人を恐れさすようなものは何もありません。盲目的な狂信とは無縁です。布施の額で自分の救いが決まるというような馬鹿げたことは、お釈迦様はお説きにはなっていないのです。ですから、もと霊や祟りで脅かし、盲目的な信仰を迫り、多額の布施を要求するような教えがあったとしたら、それはたとえ仏教の名をかたっていても、仏教ではないと考えてください。
<本当の教えが必要である>
宗教を必要だと認めながらも、それでは自分が何かを信じるとなると躊躇してしまう。どこか怖い感じがする。それは当然のことだと思います。今の時代は本物も偽物もみな一緒になっているからです。誰でも偽物をつかむのは怖いですし、ごめんです。ですから、宗教が必要であるとわかっていても自分から進んで何かを信じてみようとは思わないのです。これはもっともなことです。
ですから私は宗教が必要であるというより、真実の教えが必要であるのだと考えています。それでは真実の教えとは何なのか。それを次からは考えていきたいと思います。