誤解されやすい浄土真宗のお坊さん  (2014.11.9.更新)

  私も人のために汗を流すような姿を示すことがありませんので、大方の人の尊敬には縁遠いお坊さんだと思っています。私のしていることは、お寺にいれば、朝夕の勤行、鐘撞き、本堂並びに境内地の清掃と、雑草ひき、参道や駐車場、寺の土手の草刈。外に出るときは、法事・葬式の執行、また私は布教使なので、布教のために全国のお寺に招かれては、ご法話をいたします。寺での伝道は、年五回の法要と、毎月の常例法座、毎月の寺報「菩提樹」の発行、新しい本堂ができてから始めた御堂シアターという映画会、それに主として坊守が指導している仏教讃歌を歌うコーラス、これは月に二回の練習をして、いろいろの合唱の大会に参加したり、老人施設への慰問活動などをしています。それと夏にはお盆参りと、暮には親鸞聖人の法事を勤めるお取り越し報恩講のお参りがあります。だいたいこんなところでしょうか。なんだかこんなふうに寺の活動を列挙してみると、それなりの活動はしているようですが、これとりたてて汗をかくお坊さんの姿ということにはならないと思います。どこのお寺でもなさっているごく普通の活動で、特別なことではないと思います。またその活動も、いわゆる内向きの伝道で、ご門徒さん相手の活動に終始しているようでもあります。だから、あまり一般の人には目に触れないお坊さんの姿かもしれまんね。ですから、ご門徒さん以外の世間の人には、お寺の坊さんはいったい何をしているのだろうと思われても仕方ありません。

 

 

誤解されやすい浄土真宗のお坊さん ②(2014.11.16.更新)

 実際、お寺の活動は外に向かってはしているのですが、いわゆるお寺に関係ない人たちへの働きかけが少ないのかもしれません。先ほど言った、何かNGOなどの組織的なボランティア活動、たとえば災害の救援とか、貧しい国の子供たちへの支援とか、国の内外で、いかにも人助けをしていると一目瞭然たる、そしてそれは往々にしてマスコミによってもさかんに報道されたりするので、人のために汗をかいていることがわかるのですが、そういう意味からすると、お寺の活動は非常に地味でささやかな、そしてごくごく日常的なもので、特別ぶったところのないものです。ですが、これをお寺は淡々と何百年もの間続けてきているのです。私は、この淡々と続けてきているところに、凄さを感じているのですが、一般の方にとっては、あまりどうということもないほど当たり前のことのように思われているように思います。ですから、特別のことをしていない浄土真宗のお寺やそこに住まいしているお坊さんは、あまり尊敬の対象にはなりにくい存在だと思うのです。それに浄土真宗のお坊さんには、いわゆる修行も戒律もありませんので、酒は飲む、たばこは吸う、パチンコは打つで、全く普通の人と同じで、なんにも特別がないのです。それがために、さすがにお坊さんだなといような外面的な姿がないのです。それに頭髪もだいたいは普通に髪を伸ばしていますので、禅宗のお坊さんのように頭髪を剃りあげているということはまずありませんので、普段着でいられたら、とてもお坊さんであるとはわかりません。まことに浄土真宗のお坊さんは、外面的にはどこをどうとっても普通の人と少しも変わりませんので、その意味では一番お坊さんらしくないお坊さん、一番生臭で、だらしのない、少しも立派でない、お坊さんに思われているかもしれません。 

 

 

誤解されやすい浄土真宗のお坊さん ③ (2014.11.21.更新)

  実は、私も最初、浄土真宗のお坊さんのあるべきように悩んでいたときには、この浄土真宗のお坊さんくらい情けない、生臭坊主はいないと感じていました。酒は飲む、タバコは吸う、パチンコは打つ、その上ろくにお聖教を読まない。どこをどうつついても、お坊さんらしさの片鱗をも見出せなかったので、なんてだらしのないお坊さんたちだろうか。こんな坊さんばかりだから、お寺に人が来なくなり、浄土真宗のおみのり(教法)廃ってしまったのだと、本当に情けなく思っておりました。袈裟・衣を着けたときだけは、お坊さんとわかるけれども、私服でそのへんを歩いていたら、絶対にお坊さんだなんてわからない。それくらい僧侶らしさがないのが浄土真宗のお坊さんだと思っていたのです。

ただその後に、浄土真宗の教えというものに親近し、実際に自分もお寺に入り、組内の住職さんたちと接し、ご門徒さんとの交際をはじめてみて、私はすっかり考え方がかわりました。どう変わったかと申しますと、まさに百八十度変わったのです。つまり、一番だめで、一番情けない坊さんと見ていた浄土真宗の僧侶こそが、実は、最もお坊さんらしい

、菩薩の姿をしているのだと思えるようになったのです。そしてそのことがわかるようになってからは、浄土真宗のあるべきようについて、迷ったり、悩んだりすることはなくなりました。ある意味、その真宗僧侶のあるべきようが自分の中でしっかりと整理がついたからです。