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「クリスマスイブに」
昨日はクリスマスイブだった。その日の早朝に「お取り越し報恩講のお参りが自宅でできないから、お寺に参ってもいいですか」との電話。
山口市から車を走らせて、朝8時頃来て下さった。お若いとは言い難いお友達の運転で、乗せてきてもらったとのこと…。「お参りできて、心が軽くなりました」と言って帰られた。
やっとお参りの終わりも見えてきて、昼過ぎ自宅でごろごろしていると、遠方のご門徒様が玄関に見えた。紙の長靴にお菓子が詰めてあるプレゼント頂き「お孫さんに差し上げてね」といわれた(お年玉袋も)
「お寺はクリスマスの行事はしません」とも言えず、新発意を我が孫の様に思って下さっていることが嬉しかった。
若坊守から、無線で動くミニカーで遊ぶ孫の映像が送られてきた。
「いつも仏様を拝んでくれてありがとう しんらんさまより」とのカードを添えたプレ ゼントらしい。(おそらく若院か若坊守の字?)
この時期、我が子にもプレゼントのおもちゃを買ってやりたいとの、苦肉の策かな( ^ω^)・・・。親心よね。(12.25)
「心の洗濯日」
昨日は午後は法務がなかったので、隣寺の報恩講に参らせて頂いた。
ご講師は「中島正念先生」であった。お話を聞かせて頂くと、安らかなお念仏が出て下さる。
お取り越しのお参りでは、色々と悩み事を聞くことが多い。自分の力では、聞くだけでも精一杯になる。とても辛い。
ご法座では阿弥陀様は何も話されることはないけれど、そこにいて下さる。「悲しいね。辛いね。すべてわかっているよ」と言って下さる。
あと少しだけ、頑張ってみようと思える。(12.23)
「日日是好日」
「毎日何のために生きているのかしら…」こんな質問とも、独り言ともわからないような言葉を聞かされた。私も思うことがある。自分の思うように事が運ばず、長いトンネルを一人で歩いているように感じる時…。
でも歩ける内はまだいい。そこに立ち止まって一歩も進まない。進めないでうずくまる。ただ闇を怖がり、顔を上げることができない。もしかしたらトンネルの出口はすぐ「そこ」にあるのかもしれないのに。
そんな時は、何もしない、何もできない、何も考えない…と、自分を甘やかしてあげる。ただ生きてみる。
よく生きたね、と、悲しみの声で褒めて下さる。見ていて下さる…。(12.21)
「100人の苦しみを」
お取り越しの報恩講に参らせて頂いている。
時間を約束しているので、皆さん待っていてくださり、お部屋を暖かくして下さっている。寒い時の暖房は「最高のおもてなし」と頂いている。
お勤めが終わり、お茶を頂きながら世間話。「最近のお身体の具合はいかがですか」という質問に、「よくぞ聞いて下さいました」とばかりにご自身の身体のことを話される。「年をとるといいことがありませんね」といわれる。
思うようにならない自分の身体が情けない。家族間の愚痴や、最近死んだペットロスまで…悩みや悲しみは千差万別だ。「ふんふん…」と聞くしかない無力の自分が情けない。「お辛いですね」としか答えることができない。
100人いれば100通りの悩みがある。まこと「四苦八苦」の苦しみだ。
「抱えきれない重い荷物を背負いながら、一生懸命に歩いてきた。そのままのあなたを、背負って下さる方が阿弥陀様ですよ。」と伝えられるように、なりたい。(12.18)
「今年最後のライトコール」
昨日は午前中お参りに行き、午後は今年最後のコーラス練習だった。
参加者は年末ということもあってメンバーの半数くらい…それでも元気いっぱいの団員の声がお堂に響き渡った。
結成してかれこれ16年になる。よく続けてこれたと思う。メンバー皆さんのお陰と、陰で支えてくれる住職のお陰だと思う。
お念仏を、何気なく称えるには勇気がいる?でも歌に乗せてお念仏を歌う。大声で歌う。最高の如来様のご讃嘆になる。自分も幸せな気持ちになり、それがそのまま最高のご讃嘆になっている。「仏教讃歌」の素晴らしさはここにある。
歌える限り、皆さんと一緒に歌っていきたい。
練習後の親睦茶話会では、お汁粉、シュークリーム、お菓子、ミカンetc( ^ω^)・・・。.皆が持ち寄ったおやつを食べながら、また来年も元気で歌おうねと約束して会を終えた。(12.16)
「お取り越しのお参り」
宝林寺の報恩講を終え、本格的に家々のお取り越し報恩講を回らせて頂いている。「寒いですね~」と挨拶し表の縁側から上がらせていただく。
ちょっと戸惑うことがある。今に始まったことではないが、最近の家には縁側がない。軒もないお家の作りになっている。
お坊様が玄関からではなく、表から入られるのには訳がある。それは「布袍・輪袈裟」を付け、衣をまとわれているからである。
「袈裟」は法そのものを示すもの。だから仏様をまとう方として、大切にお迎えされて来たのである。
今日は西洋的な家の作りが多いので、当然だが、特別な玄関を持たないのであろう。
西洋の方が日本に来て先ず驚くことの一つに、それぞれの家に「仏壇」が安置されているということ。キリスト教徒は週末に協会に行き敬虔なお祈りをささげる。
この教会の神様を、日本では家々に安置し、毎日拝むということに感心するらしい。
立派な仏壇を家の中心に据え、大切に拝まれてきた。その仏様のお取継ぎをして頂く衣を付けたお坊様を大切にお迎えしてきたのだ。
私も僧侶の端くれとして、心してお取継ぎさせて頂きたいと思う。(12.14)
「朝めざめること」
朝、
目が開く、指が動く、声が出る
笑えて、ご飯が食べられる
身体が動いて、話が弾む
有難いなあ…としみじみ思っていたら、茶碗を落とした。
割った茶碗に「なんでこんな忙しい時に…」と、茶碗にブツブツ言う自分がいた。
有難いなあ。(12.13)
「お斎(とき)のこと」
この時期、全国の真宗のお寺様では「報恩講」が勤められている。住職もお声を掛けて頂き法座に出講させて頂いている。帰るとき、手づくりの御斎をパックに頂いて帰ることがある。
昨日は大分県のお寺様から頂いて帰ってきた精進の「おとき」を夕食に頂いた。
「酢物」「煮しめ」「白和え」精進料理の定番。手作りのお料理なので、各お寺様の味の特徴が表れていておいしさも格別だ。頂きながら、料理をされている方々の顔を思い浮かべたり、たわいもないおしゃべりをされる姿を思い浮かべる。
作る側としては、メニューを考え、材料の調達(予算内での)調理場を整え、人材確保などなど…事前準備が大変だ。
でも同じ時刻に同じ場所で同じものを頂きながら、聖人の恩徳を偲ぶ。「お斎」は心と身体を満たしてくれる大切なエキス…。
それにしても、この時期はいろいろな精進の味に出会えるので幸せ( ^ω^)・・・。(12.11)
「暑さ寒さもスーパーマーケット」
「ちょっと行ってくるね」とほぼ毎日のように出かける前坊守。御年83歳の前坊守(私の母)の日課である。車で20分、その場所は某スーパーマーケット。開店と同時に小さなカバンを下げて急ぎ足( ^ω^)・・・。
母の元気の秘訣は、毎朝大きな声で称えるお勤めと、この欠かさないスーパーマーケット詣でにあると私は秘かに思う。
「スーパーに行けば暑くも寒くもないし、暖房費も節約よ」と倹約家ぶりを発揮している。
外の刺激を受けて、はつらつとしている母を見ると「今が青春」と言っていたことが頷ける。戦争を経験し、芋ほりと家族の世話に追われた子ども時代。2度の火事で何もなくなった寺に嫁いできた娘は嫁になり苦労マックス…。私が子どもの頃思い出す母の顔はいつも不機嫌で怖い顔だった。
今や「好々爺」ならぬ「元気はつらつ、好々ひいばあちゃん」である。
母は「お金を使い果たして、何も残せんよ」と言うけれど、もう十分。もらっているよ。千両万両以上…に値するお念仏を…。この念仏は使えば使うほど増えてくるから不思議。(12.9)
「高度情報化社会の落とし穴と朋友」
昨日はS社の通信サービスにトラブル、約4時間半にわたり、全国で通信障害が発生した。
頼りにしていたグーグルマップが使えなくなってしまった。前から予定していたこの日、地図を片手に友達の寺に行った。「確かここを右折して…」自分の不正確な記憶にまかせ、同じ場所をぐるぐる回り…結局、お店に駆け込んで道を教えて頂いた。(地図をもっていても、地図読みが苦手では用をなさないことに気が付いた)
約束時間に5分超えて、待合場所に友がいた。友の顔を見るや否や安心してへなへな…。
お寺の阿弥陀様にご挨拶して、じっと拝まさせて頂いた。堂々とした佇まいの阿弥陀様、この阿弥陀様をお給仕させてもらっているのね…素直に嬉しかった。
帰りは分かりやすい所まで、車で先導してくれた。薄暗くなった道を、前を行く友の車のライトが照らす。なんて頼もしい灯りだろう。この灯りを頼りに従って行けば必ず家に帰ることができる。いつもそうだった。私が迷ったとき、友は傍にいてくれた。
情報化社会がなんのその。同じ朋友(とも)と共に帰るべき家(浄土)に帰らせていただく。それだけで用は足りている。(12.8)
「祝!住職61歳の誕生日」
12月は住職の誕生日。今年で61歳になった。(彼ばかり歳をばらしてはいけないので、私は住職より3歳下)お互い今日まで大きな病気もなく、元気でおれたことに先ず感謝した。
「身体は機械と同じように、少しずつガタがきて、少しずつ思うようにならなくなるのだろうね。勿論メンテナンスは怠りなく、頂いた命を大切に、尽くさないとね」
23歳で住職と出会ったから、かれこれ25年、共に歩んできたわけだ。順風満帆というわけにはいかなかったが、今は思う。彼はやはり、私を導くためにお出まし下さった仏様…。
住職に愚痴を言い、喧嘩もしたことも数々( ^ω^)・・・。その都度、自分の頑固な姿を彼を通して見せつけられる。「自分が一番可愛い」ということから離れられない姿を見せてもらった。
孫がおじいちゃんにと、紙粘土で大きくなった足型を送ってくれた。昨年のと比べてみた。確かに成長している。自分たちも歳をとった。孫に残せるものはたったひとつ。それが伝えられるよう努力したい。日々是好日。(12.7)
「H30.報恩講をお勤めしました」
去る12月2日、自坊の報恩講をお勤めしました。毎年報恩講が全国津々浦々のお寺様で勤まり、今年で757回忌のご法事である。直接お会いしたことのない「親鸞聖人」のご法事を勤めて757回…驚く数である。
お寺の法要を勤めるとき、2つのことを思う。
一つは「晴れたらいいな」もう一つは「お参りが沢山あればいいな」である。
お寺は小高い所に建っている。参拝の皆さんは、なだらかな坂を登って参られる。ご年配の方や手押し車で上がって来られる方もある。雨だと道が滑りやすく心配になる。
また、年々お参りできる方が少なくなって寂しい。お参りして下さった方が往生され、本堂にぽっかり穴が空いたように思うときもある。
お勤めが始まると「俱会一処」…ここでお会い出来ていることを感じる。
今年も報恩講さまに会わせて頂けた。もったいないな。(12.4)
「山口別院報恩講3日目」
ご満座の3日目は、朝から住職と前坊守とで参らせて頂いた。
今日のご講師は「瀧渕良孝先生」(安芸教区)でした。初めてのご縁です。
ご法話の中で「見てござる」というお言葉が心に響いた。親が巣立つ子に対して「辛くなったらこの事を思い出して、と手渡された手紙の中に書かれた文字だった。「見てござる」どんなに辛く哀しい時も、一人ぼっちで寂しい時も、親が我が子を見守るように、仏様はずっとそばであなたを見て下さっている。そのことを思い出してね…。
順調で自分の思い通りになる時は、親のことは思わない。でも、思うようにならないことが自分の身に降りかかった時、一番に浮かぶ顔がある。それは親の顔…どんなに、そむこうが親様は見捨てない。放さない。むしろ寂しい、悲しい時こそ、よりその慈愛は注がれる。
お念仏は優しい。有難いご法話を頂いた。
さあ、今日から自坊の報恩講さまに向けてご報謝させていただくぞ!(11.29)
「別院報恩講2日目」
27日のお昼の時間にライトコールが仏教讃歌を披露させて頂きました。(写真は学部の友人が撮ってくれました)
「弥陀の名号となえつつ」「つながるいのち」「報恩講のうた」をうたいながら聖人の恩徳を偲ばせて頂きました。
今日のご講師は大学時代の先輩でした。(寺西龍象先生)お昼休みの時間、ご挨拶させて頂き、本当に懐かしく、次々と思い出されてきました。
学生時代、伝道部というところに席を置き、訳が分からないまま、本山の御茶処で法話をさせて頂いてました。今おもえば冷や汗ものです( ^ω^)・・・。(11.28)
「山口別院報恩講~初日」
別院の報恩講にお参りさせて頂けた。午前中は法事が入っていたので、午後からお参り。
午後は伝供(お供えの儀式)があり、御伝鈔の拝読があった。有難かった。
今日のご講師は「舟川宏顕先生(北豊教区)」だった。⇒内容は後日
今日頂いた「報恩講」の施本に
この世の出来事の / 何事も / 念仏の助縁と / 心得うべきなり
(信楽峻麿先生のお言葉)谷川弘顕先生筆
今はこのお言葉の意味がよくわかる(11.26)
「ご利益のこと」
昨日は宇部の街地区の懇談会をお寺でした。内容は次期地区総代についてであった。
「私は仕事を辞めて家にいるようになったとたんに、あちこちから役が来るようになった。今はお宮さんの役をしている」と言われた。
確かに人口減少に加えて仕事の雇用も延長している。地区の役員人材不足はどこも同じようだ。「二つのお宮さんをお守りして、草刈りやなんだと駆り出されているよ」とのこと…。これでお寺の総代を引き受けたら3つ( ^ω^)・・・。
私は「3つ分の御利益があるかもしれませんね」と軽く冗談で、ジャブを打った。住職は「おいおい…本気に思われるぞ」というような困った顔(笑)
浄土真宗でも御利益(ごりやく)はあるのだ。(十種の現世利益)でも通常考えられているような御利益ではない。
神仏を拝むと病気が治る、宝くじに当たって生活が楽になる、希望する受験に合格する…等々。こんな自己の欲を満たすような御利益ではない。
思うようにならない人生を、それでも生き抜く智慧(仏様の)を頂く。それが一番大きな御利益だと、お聞かせ頂いている。
次期総代さんは宮総代さんをしていると言われた方に決まった。さて、真宗の御利益を、これからどう伝えよう…(11.25)
「お陰様」
今日もお朝勤を参らせていただく。有難いなあと思うことが多くなってきた。
住職と結婚してはや32年。市川の両親が心配したことは「細くて(体が)大丈夫だろうか」ということだったらしい。
当時は今よりもまだまだ細く、確かに心配されたことだろう。
ところが、意外にも丈夫だった!健康な体に生んでくれた両親に感謝している。と、同じくらい、毎日の勤行が健康にさせてくれていると思う。
お寺の朝は早い。冬でも4時前後には起きている(その分床に就くのは早い)。
お朝勤、掃除、鐘を突く。一連の行為を勤めてきた(住職が…私はその手伝い程度だが)。その分、体調を崩すことができなくなって、本当に助けてもらっている。
いつも「見張られ」…間違い(笑)「見守られ」ながら「お陰様」の中にいる。(11.23)
「大切な時間」
9月のおわりに義母がお世話になっている施設で敬老会のお祝いをして頂いた。今年88歳になった義母は特別に表彰され、大きな記念品を頂いた。
その時撮って頂いた写真…大きな包みを大事そうに抱える姿に思わず(笑)。
(中に入っているものは…義母の大好きな羊羹やフルーツゼリーでした。)
1週間に1度くらい、住職とお見舞いに行く。その時、甘いものが大好きな母に食べやすいゼリーやカステラなどを届ける。セレクトはいつも住職だ。
美味しそうに食べる義母に、くどくどと「美味しい?」と聞く住職。「美味しいわね」と何度も答える義母…この時間は二人にとって大切な時間。私は邪魔をしないように( ^ω^)・・・。(11.22)
「白足袋について」
もう何年も前の事、この時期になると思いだすことがある。10月くらいから早いお寺様では報恩講の法要が始まり、明けて1月末くらいまで勤まる。加えて自坊では各家をお勤めに歩く。住職にとっては多忙極まりない時期(?)である。
毎日数足の白足袋が洗濯物に出る。ごちゃごちゃになってしまった足袋たちを「整理しましょう」と一斉にタンスから出したときだった。「明日からお説教で数日留守をするから足袋を出しておいて」と住職に言われた。ちょうどごちゃごちゃになった場面を見られてしまった。「こんなにごちゃごちゃになって、右左の足袋がわからなくなってしまい、どうするんだ」と言われてしまった。
普段は穏やかな住職が、珍しく声が大きく慌てる様子が可笑しかった。「何でそんなに慌てているの…」
聞けば、某住職さまが布教先で、いざ履き替えようと思って出した足袋が右右でたいへん困ったとのこと。その二の前になることを恐れた様子だった。
「こうして、まず親指を揃えて右だけそろえる。次に左。それから同じもの同士合わせたらokでしょ」と、敢えて冷静に振る舞った。
大雑把なことでよく注意されている私だが、今回は胸がすっとした気分(笑)(11.19)
「お礼参り」
11月10日にご門徒様が往生された。そのお礼参りに来られる。
朝からお斎を用意して、忙しかった。今日は住職はお説教で出講なので、お礼参りも私が勤めさせていただく。
享年83歳。ご母堂さまの往生に、長男さんとお嫁さんが参ってこられる。
私よりお若い二人なので、今、子育てや仕事に追われ、なかなかお寺のお参りに来られることは難しい。
しかし、ご母堂さまの往生をご縁に参って下さる。
ご往生された方は、もう今生でお会いすることはできない。でもこうして、若い二人を動かし、お寺に連れて来てくださった。それは紛れもない事実で、ご母堂さまが仏様となられて若い二人をお導きくださっていることは、紛れもない真実であると思う。(11.15)
「おまるのこと」
あと3ヶ月で2歳の孫がトイレに行けた、と若坊守からラインが来た。そこでさっそく「おまる」を買いに行った。「おまる」とは子供用のトイレのことで、最近では色々なキャラクターがおまるに張り付いている。デイズニーのおまるに決めた。おまるが終わると子供用補助便座を付けて、いよいよ大人用トイレデビューである。
何でもないことだが、一人前にできるようになるまで、育てていくことは大変なことだ。この時代の記憶は曖昧で、自分一人で大きくなったような顔をしているが…いやいや孫に教えられる。
デイズニーのおまるは大人便器の横で、ちょこんとお待ち受けしている。
昔のトイレは「ご不浄所」と言われたらしいが、孫の「おまる」は頬をすりすりしたいくらい可愛い。「おまるさま」である。(11.12)
「残り柿」
朝の散歩を再開した。「老化は足腰から」ということで、散歩はお金がかからない最善の健康法と思っている。
なだらかな山道を登る途中に住職の畑がある。紅葉を始めた木々に混じって柿の実が赤くなり、後ろに従える緑の木々に映える。とりつくせなかった柿の実だ。遠くで眺めていると「ぼんぼり」のように見える。(灯りを付けましょ、ぼんぼりに~♪の、あのぼんぼり)
「ぼんぼり」には「はっきりとしないさま。ほんのり」という意味があるらしい。
初冬にぼんぼりを灯すように、残り柿は山々に燈る。山のねぐらに帰っていく鳥たちを優しく灯す道しるべのよう…。(11.10)
「孫の1歳のお誕生日」
私には孫が二人いる。昨日は外孫の1歳のお誕生日だった。里帰り出産をしてくれたので、その日のことは記憶の中で大切にしまってある。
今か今かとその時を待っていた。
お産が始まると、病室の廊下でじっと待っていた。これはテレビでよく見るシーンだ。時計の刻む音が、心臓の鼓動と連動して響く…ように感じられた。
一旦、家に帰ってもらった夫も待ちきれなかったのか、電話する前に病院に来てくれた。
ナース室の看護師さんの行動を、二人してじっと見張っていた。
「生まれました」「お母さん、本当に我慢強いですね。立派なお産でした」と言われた。我が娘が初めて「お母さん」と呼ばれた瞬間だった。肩の力が抜けてしまった。しばらくして孫を連れてきて下さった。真っ赤な顔に赤い唇。生まれたての赤ちゃんは、やはり赤かった。「赤ちゃん」という日本語は優れているな。
やっと娘に会えた。頑張ったね。おめでとう。
そして娘はお母さんとして1歳のお誕生日を迎えた。(11.9)
「お聴聞とご飯の味」
今月のお別院常例法座のも会わせていただくことができた。講師は深野純一先生で宝林寺にも何度か来ていただき、ご縁に遇わせて頂いたことがある。
「お正信偈」の内容を理しやすく、お名号のいわれ、念仏の味わいをお聞かせいただいた。
先生のお話は、以前からお聞かせいただいた同じ喩も出てきた。「そうそう」と何度でも頷ける。有難い。
「お聴聞はご飯と同じ」と言われた人の言葉を思い出す。
毎日食べても飽きない。変わらないおいしさだ。お聴聞も同じ。繰り返し聞かせて頂く。何度聞かせて頂いても飽きない美味しさだ。それどころか、味わいが深まる。もっともっと、と、またお聴聞したくなる。美味しさが身に染みてくる。
私もご飯が一番になりつつある。(11.6)
「ご法事」
お寺でご法事をされる方が多くなった。その理由の大半が家の事情だ。
「お客をお招きするのに、二間続きの部屋がない」ということ。その逆の理由には、「少人数なので、お寺さんに来てもらうのは申し訳ないので、こちらが参らせてもらう」など…。
また、遠方の親戚を招くのにお寺が分かりやすく集まりやすい等々。
理由はいろいろあるが、ご法事を勤めようとされる気持ちは有難い。
先週土曜日、若い二人がお母様のご法事をお寺でされた。仏縁薄い二人に「よく勤められたね」と住職。
「生きている間は、母に何もしてあげれなかったから…」と答えた若者の素直な気持ちが、私の胸に響いた。
息子のような年頃の兄妹を夕食に誘い、一緒にご飯を食べながら、お浄土のお母さんの思い出話を聞かせて頂いた。お寺での法事も悪くない。(11.5)
「秋桜の如く」
秋桜が好きだ。こすもす・コスモス・秋桜…。色々な表記の中でも「秋桜」がしっくりくる。
沢山の花たちが、色とりどりに咲き、調和を奏でる。花びら1枚とってみても素晴らしい業。なのに自分を誇示することもなく、群れの中、そっと風に揺れながら咲いている。
か細い葉を従え、風の為すまま揺れる。
一見、ひ弱に見える秋桜だが、意外や意外。台風にも負けない。風で倒されれば、倒されたなりに、光に向かって上を向く。
こんな風に、生きたい。(11.2)
「親鸞聖人は法然聖人から何を聞いたか~よきひとの仰せ~」
過日、寺子屋塾の玉木先生のお話を聞かせて頂いた。先生は龍谷大学教授で故岡亮二先生の愛弟子である。
玉木先生のお話の中で、岡先生が闘病生活でのエピソードを話された。
簡単に言うと「病気して手術して、痛い時は念仏なんか出てこない」という話だった。
でもそれだからこそ、有難い。阿弥陀様は自分が忘れていても、ちゃんと覚えていて下さる。一番苦しい時、傍にいて下さる。そのことがわかる時は手術が済んで、冷静になった時かもしれないが…。だからこそ平生の時、何度も何度も聞かせて頂く。
かけがえのない師から親鸞聖人は「念仏のみぞまこと」と聞いた。聞いて、聞いて、聞かされた。法然聖人を通して如来様が声となってましまして下さった。
その時の場面を想像すると震える。
今は親鸞聖人にも岡先生にもお会いできないが、その教えを聞き、その如くに教えて下さる玉木先生がいて下さることは有難い。(10.26)
「10月もいろいろありました」
ご門徒様の葬儀。行年70歳。まだまだ若く、とても悲しい。昨年の今頃は念仏奉仕団の旅行に一緒され、大好きなカメラで団参の皆さんの笑顔を撮って下さった。(住職引率)
自由な雰囲気で芸術家タイプの彼女は、何処にいてもいつ会っても変わらない。自然体の人だった。
お浄土でご両親と一緒に娑婆世界での出来事を報告されながら、残された方を見守って下さるだろう。(10.24)
「本山と納骨堂参拝の旅」
10月20・21日の旅を無事終え、昨夜帰宅。
急に住職が行けなくなり、私が引率という事態になってしまった今回の参拝旅行だった。
頼りがいのあるご門徒さんにそれぞれ役を担って頂き、滞りなく日程を終えれたことは何よりの喜び!
初日は本願寺以外にも、東福寺近隣の稲荷神社に参拝した。愕然としたこと…落ち着いた本願寺とは打って変わって、神社の賑わいは凄い!特に外国人観光客と若い女性の姿が目に着いた。
本願寺の宿坊にたどり着くとなぜか自分の家に帰った時の様にほっとした。これから変わっていかなければならないこともあるお寺だが、反面、変わらないでほしいなと思う所もある。それは安らげる故郷を思わせる静けさ…であろうか。(10.22)
「御本山・大谷本廟参拝の旅」
今日から2日間京都の団体参拝でお礼参りしてくる。当初予定人数は住職を含め9人の少人数。しかし葬儀が入り、住職が参れなくなってしまい、私が引率しての参拝となった。
昔、京都に住んでいたとは言え京都駅周辺も様子が変わっている。スケジュール管理や、代金支払いなど等、気の抜けない2日間となる。
これまで毎年のように住職が引率して参拝してきた。今回は久々に私も連れて行ってもらえることになり、代わりにガイドさんは付かない…参ったな。
何でもないように2日間を住職は引率して帰ってきたが、気苦労も多かっただろう。皆さんが無事で帰ってこれるよう、念ずるばかり( ^ω^)・・・。(10.20)
「みんにゃ食堂」
宇部北組の御同朋研修会で「貧困の子供たち問題」の研修会が開催された。会所は常光寺さま。講師は宇部小野田組の斎藤先生であった。
先生のお寺では昨年7月から「見えない子供の貧困」の問題に取り組んでおられる。ちょうど本願寺における実践運動と、問題が一致したのでお話を聞かせてもらうことになった。
最初は100人くらいの子供、大人の人が夕食を食べに来られていたが、1年たった今では300人くらいの人の利用者があるらしい。それを地域のドクター、看護士、学校の先生、栄養士等々の方々が手伝ってくださるとのこと。
素晴らしいなと思う。お寺が地域活動の真ん中にあり、分け隔てなく来られる人達の憩いの場となっている。
当初は賛否両論あったことも、信念をもって行っておられるご住職様の思いが、今の結果につながっている。とてもまねはできない。が、その心意気は真似たいと思った。(10.18)
「親鸞聖人は法然聖人から何を聞いたか~よき人の仰せ~」
昨日(14日)第2回寺子屋塾が開座された。講師は龍谷大学教授の玉木與慈先生でした。先生は住職と同じ岡亮二先生の門下生で(私もその端くれ)、宗報「大乗」にも寄稿されている、知る人ぞ知る先生である。
それと、今回ダメ元で岡先生の娘さんの京子さんもお誘いしてみた。 (京子さんは岡先生が往生されてから自坊の住職をされていて、多忙な日々を送られている。)なんと!ちょうどその日の都合がつき、和歌山からお越し下さったのだ。
これは岡先生がお浄土より、いい塩梅に皆の都合を調整して下さったに違いない!そうとしか思えないくらい出来すぎた話になった。
「昨日の事が夢のようだね」住職がそう言った。私は住職の言葉をこれまた夢の様に聞いていた。(10.15) ⇒講演の内容は次回に続く
「お浄土の住人」
ご門徒さんが往生された。また葬儀…ご門徒さんの葬儀は辛い。お正信偈を称えると涙が出てくる。
お取り越し報恩講で一緒に称え、お茶をいただきながら世間話をする。それだけのことだtったが、泣けてくる。
お育てを頂いたこと、本当にありがとうございました。また、すぐに会えますね。それまでお導き下さい。(10.13)
「坊守研修会」
昨日、山口別院で坊守研修会があった。研修会のテーマは「次世代へ繋ぐお念仏…坊守として」という内容。講師のお話を聞いて、分科会に別れて班別の話し合い。
元来女性は話が好き。況や坊守においておや( ^ω^)・・・。
楽しそうに話す声が、あちこちのテーブルから聞こえてくる。普段は孤独な坊守業?今日は分かり合える仲間がいる。たまには弾けて、明日からの活力にこの研修会がなったら嬉しい。(10.12)
「今日を生きる」
今日を生きる…と決めても、なかなか難しい。昨日の失敗をくよくよしたり、明日のことに気をもんでみたり…。
今日、この今は二度とない。だから新しい命を頂いて精一杯生きる。
本当にそうすることは難しいことだ。
でも決めた。今日を力の限り生きてみようと…。
爽やかな秋の空。(10.9)
「10月の別院常例法座」
5日、別院の常例法座にお参りさせていただいた。
明日台風が西日本を直撃する…かも…ということで、戦々恐々とする中だった。
お説教の中で2つのことが残った。というかありがたかった。
一つは金子みすゞさんの詩をご紹介されたことで、現代人(聞法者)があまり使わなくなった言葉を指摘された。それは「仏様に御礼する」と「お育ていただく」という二つの言葉だった。「仏様にお参りする」とは申しても「仏様に御礼する」とは言わなくなった。「御礼する」とは何かを頂いておらなければ言えない言葉。昔の方は仏さまからの確かな「ご信心」を賜っておられたからの「お礼参り」だったのだろう。
もう一つは「妙好人」の方の話し。お同行が妙好人の家を訪ねて来られ、畑にいる人に聞くと、「はいここが家です。幸いにも如来様のお家に間借りさせていただいております、ここが家です」と、お答えされたそうだ。
門徒の高齢化、過疎化でお寺の維持が難しくなっている今日だが、「妙好人」の方のお話に目が開かれた思いがした。たまたま如来様のお住まいに住まわさせて頂く者、如来様のお住まいは如来様にお任せして、日々の暮らしをコツコツさせていただくだけだ。(10.7)
「行年103歳」
ご門徒様が往生された。行年103歳。門徒過去帳の中、最高齢のお年を刻んだ。
1世紀を生きぬいて来られた。ご事情で幼きお孫さん3人を立派に育て上げたおばあちゃん。そのご苦労は想像できる。
薄っすらと化粧をしてもらい、お棺に横たわるお顔は安らかだ。
「やっと安穏なお浄土に参らせてもらえたね。本当にお疲れ様でした」耳元で囁いた。
待っていてくださいね。私がこの命終えるまで。そして私をお浄土にお導き下さいね。(10.3)
「敬老会」
昨日は義母のお世話になっている施設で、敬老会のお祝いをして頂いた。
その中でも88歳、100歳、施設最高齢の方には特別に、皆さんの前で名前を読み上げ、記念品や表彰状を頂かれていた。義母は88歳の米寿にあたる。
施設長さんから記念品を手渡されると、義母は感極まって涙した。お祝いされることが嬉しかったのだろう。どんなに年をとっても、祝われることは嬉しい。お祝いされることが自分を認めてくれている…ように思ったのかもしれない。
私の住んでいる小野は高齢化、過疎化で、人口減少が進んでいる。日中外を見ても行きかう人はいない。静かで、時間が止まった町のようだ。
昨日の施設には入所者を含め、沢山の人が集い、祝い、昼食を会した。この日の施設は活気に溢れていた。お年寄りの人達が懐かしい歌を、生演奏に合わせて歌う。歌が施設のホールに静かに優しく響いた。(9.30)
「カーディガン」
朝夕は肌寒く、着替えるのも億劫になってきつつある。日中のお日様が当たると夏が戻ってきたようだが…季節の変わり目、着るものに困ってしまう。そんな時、重宝するのがカーディガン。活動時に着る衣類の上に、肌寒い時は一枚これをひっかける。必要なくなった日中はサッと脱げばいい。温度調節がこれ一枚でできる。エコライフの最先端を走り続けている。思えば優れものだ。だけどカーディガンは自己主張することもなく、必要な時、適材適所で寒さから助けてくれる。
こんな人を私は知っている。こんな人に私もなりたい。(9.27)
「電話の朋」
「浄土真宗でのお彼岸の意味がわからない」と、昨日電話を頂いた。電話の主はインターネットのホームページを見て下さっている方で、何度か本願寺から出ている施本を送らせていただいている熱心なお同行である。疑問などあるとお電話を下さる。
住職がしばらく寺を留守にしているので、こんな時は頼りないけど私が応対する。彼から電話がくると、同じ悩みや疑問を抱えていた若い時があったので(今も)、「こんなことを問うておられるのかな?」と推察しながらの対話。(まだ私よりお若いのに、幼い時からご病気がある。今も沢山の病気を抱えておられる。目が見えるうちに…と真宗関係の本をたくさん読まれているらしい。)
私に電話でお答えすることができるの?そもそも彼に「さもありなん」という顔でお話を聞いている、私は何者?…と思う。
彼からの電話は、忙しい時にはちょっと困る時もある。が、その電話は如来様からのご催促に思える。「学びなさい。問いなさい。そして思いなさい。全てが仏のお慈悲の中であることを。」と彼を通して教えて下さっているようだ。
すべてが如来様のお手の中。(9.24)
「魔法の言葉」
秋分の日である。仏事としては「秋彼岸の中日」として、この日の前後3日計7日間を彼岸という。そして彼岸(お浄土)を偲ばせていただくに最も良い季節としてお勤めされている。
宝林寺では秋法座をすでに勤めさせていただいたが、お彼岸にはお墓や納骨堂にお参りされる方も多い。
せっかくお参りされた方に、お時間が許せばせめてお茶でもと思う。が、遠方から来られ方は次のご予定のある方も多い。
缶ジュースやお饅頭の一つを持って帰らせるのは躊躇われる。そこで登場するのがこの言葉「仏様のお供えのお下がりです。おもち下さいね」
大抵の門信徒さまは遠慮がちに「お下がりならいただきます」と言ってくださる。
一昔前の日本人なら「つまらないものですが」と言って手土産を差し出したものだ。日本人ならではの謙虚さのあらわれだった。しかし現代はそういうことは相手に失礼な言葉だとされる。「つまらないものを先方に持っていくのか」ということのようだ。
言葉使いも時代によって変化する。
でも、同じ教えの朋(ともがら)ならば、いつの時代でも通じ合える。
「仏様のお下がり」とは、それだけで有難いものだと思える共通認識があるからだ。その有難いものを頂いて手を合わせることのできる朋(ともがら)にお育てをいただきながら、また今年も秋彼岸を頂く。(9.23)
「山口花博へ行こう!」
10月、宇部北組坊守会で花博へ日帰り研修旅行に行く。そこで、昨日、時間や行程などをご案内すべく下見に行ってきた。
阿知須駅から7分…駅から丸いドームの屋根が見える。小雨だったせいか、さすがに昨日は観光客もまばら(広い場所に色々なイベントやアトラクション設備があるので把握できない)
広い無料駐車場に車を停める。ゲートをくぐると特別な花ではない可憐な花々がお迎えしてくれる。薬草のような花もあり、ハーブの香りがいい。
ドームの中には「假屋崎省吾」さんの生けられたという大きなオブジェの生け花がある。それを見ることを目当の観客も多いと聞く。確かに生け花の前では写真撮影の人だかり。
園内では至る所に気の利いたテーブルと椅子、ベンチがあり、お弁当を食べることができる。また、岐波の海に面する自然の潮風を感じながら、軽音楽の演奏を聴くことができる。
長いブランコ、高いブランコ、木のぬくもりがするジェットコースター等々。子供たちが遊べる遊具も無料!
夢のような一日がここには詰まっている。レッツゴー花博!(9.22)
「樹木希林さんのこと」
女優の樹木希林さんが往生された。行年76歳。
樹木さんといえばホームドラマ「寺内貫太郎一家」のおばあちゃん役や、富士カメラのコマーシャル「写ルンです」で有名。また近いところではアカデミー賞受賞の「万引き家族」でおばあちゃん役を見事にこなされていた。
「全身がん」と告白されたのは2013年の日本アカデミー賞の授賞式でのこと。その後も闘病しながら映画やテレビに出演し続け、個性豊かな女優さんとして才能を余すところなく放ち続け、私たちを楽しませてくれた。大好きな女優さんだった。
樹木さんの最期の作品のひとつ「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」では茶道教室の先生役として出演されているらしい(10月13日公開予定)。茶道の経験が全くない樹木さんに監督やプロヂューサーは稽古をすすめたらしい。しかし樹木さんは「お茶の心を理解するとか、そういうことからはいることはあきらめました。演技としてやります」と。
この話を聞いて、一見不遜なようにも見える。が、改めて考えてみると茶道をこの道として究めるために何年もかけて精進されている先生方への、樹木さんなりの最高の敬意を表されたことなのではないかと思う。
「茶道」という「道」の形や精神を、昨日今日習ったからといって身に着くものではない。「それを少しかじったからそれらしく見えるだろう…という考えはむしろ不遜なこと、私は女優なのだ。嘘事をそれらしく演じることが仕事の女優」と思われたのではなかろうか。
僅かな知識や経験で、知ったかぶりをしてしまう。いいとこだけを取り、切り張りした知識や経験は何の役にも立たないよ。張りぼての人生はすぐに綻びる。だから、自分の人生を生きなさい。
「私は女優。嘘事をそれらしく演じることを生業としてきた女優…」そんな樹木さんを偲ぶ「(9.21)
「お聴聞の旅」
隣寺の養福寺様で秋法座が立つとのご案内を受け、午前中は予定を入れずお聴聞をさせて頂いた。ご講師は棚井にあるお寺のご住職様で、初めてご縁に遇わさせて頂いた。
最初の自己紹介でご住職様の生い立ちをさらりと話された。幼きときに実父の先住様が往生され、以後、お母様でいらっしゃる坊守様がお寺を支えてこられ、その中で自分も仏法に遇わさせていただいた…とのことだった。
核家族が当たり前、継ぐべき家制度が崩壊してしまった今日。お寺の継承者にも頭を抱える時代になってしまった。ひと昔前までは長男(嫡男がいない場合は長女)が寺を継ぐことは当然のことだった。
それが今日はそうはならない。
そんな中、お若くして住職様となられ、こうして立派にご法話を説いて下さっている。本当に嬉しいことだ。若い力で真っ直ぐにご讃嘆くださる、そのお姿を拝するだけでも有難く思われる。
頑張れ、頑張れ…そして仏法繁盛のために尽くされんことを念じ…合掌(9.20)
「敬老の日」
前坊守(わたくしの実母)は御年82歳(今年の誕生日で83歳…Σ(゚Д゚))活力あふれる人である。
終戦を迎えようとするとき、母の小さな町に誤って爆弾を落とされた。「その爆撃の火の粉を飛び跳ね、かいくぐって生きてきたよ」と、さらりと話してくれる強者(ツワモノ)。この母には頭が下がりっぱなし。
ほぼほぼ…「敬老の日」には当てはまらないくらいパワフル。しかし、「敬老の日」という声を聞くとやはり何かお祝いをしなければ…と強迫観念(笑)。先日は「母の日」のプレゼントを贈ったばかりだ。
「そんなこと、いいのよ」とは言ってくれるものの、嬉しそう。
何もなかった子供時代、それでも楽しかったと、話してくれる。近所の子供を集めて近くのお寺の日曜学校に連れていくのも、姉御肌の母の役目だった。仏縁に恵まれ育てられた…その母の「敬老の日」を心を込めて祝いたい。(9.15)
「秋」
今年の猛暑は日本中、いや世界の中でも、暑さゆえの異常気象に多くの命が失われた。
そんな猛暑も少しずつ影を潜め、朝夕は肌寒さを感じる。先日の被災地の北海道では朝の気温がグンと下がり、今度は寒さゆえの障害に対応が必要となっていると聞く…。
秋が短くなったと感じる。日本の四季は何処へ行こうとしている?
これも全て人間がしてきた行いの結果なのかな?自分たちの欲を満たすために自然の摂理を無視して、壊し続けてきた結果なのかな。
束の間の「秋」は夢幻の人生のようだ。(9.13)
「山口別院常例法座」
毎月5日は山口別院常例法座の日である。他の予定があると、なかなかお参りできない。この月は有難くも、お参りすることができた。
お参りしてみて、驚いた。常例法座は平日の午後からなので、無理もないのだが、参拝者が減っている。これまで欠かさず参ってこられていた方々の高齢化にもよるのだろうが…別院までもか…と思う。いよいよお寺での法座も難しい時代になったことが目の当たりにされた。
10月は寺族婦人研修会が予定されている。「これからのお寺の在り方を考えてみましょう」という趣旨で本山からご講師の先生がお話し下さり、後にグループに別れて話し合いをする。今から楽しみな講座である。
日本中、各地で想像を超えた自然災害が発生している。形あるものは壊される。愛しい人とは一瞬で切り離され、命の儚さを思わずにはいられない。
御法を聞く道場がお寺であることは今も昔も変わらない。今こそ、お寺がお寺本来の役割を果たすときだと思う。(9.10)
「H30年度の初参式」
ことしの蓮仏教婦人会秋法座も無事終えることができた。台風シーズンの9月2日、お天気が気になるところだが、昨日の空が噓のように晴れ渡り、晴天に恵まれた。
毎年、初参式を募っているが、今年もお陰様で2名の赤ちゃんがお参りして下さった。この田舎のお寺にあって、毎年、初参式ができることが有難い。
初参式は約30分くらい。入堂に始まり「音楽法要」「ご門主様のお祝いのお言葉」「住職法話」「記念品」「お祝いの歌」など…赤ちゃんにとっては時間が長い大変なセレモニーだ。長時間お母さんに抱かれ、じっとしていることは難しい。
しばらくすると赤ちゃんのゴソゴソが始まった。その時だった。新発意(我が孫)が赤ちゃんの前に行き、自分の大好きなおもちゃを、赤ちゃんに貸してあげると手渡した。孫は1歳半。赤ちゃんからやや成長し幼児の扉を開けたばかり…。昨年はこの初参式を受けさせて頂いた。
「ほう…」成長している姿をまじまじと見させて頂いたようで、うれしかった。
赤ちゃんには赤ちゃん同士の世界がある。赤ちゃんたちは頼りないけど心配してくれる、小さなお兄ちゃんの気持ちを汲み取ってくれたようだ。(9.6)
「広島のお同行とインターネット」
お寺のホームページを見て下さった広島の方に、「何か法話集を送ってほしい」と依頼された。住職に選んでもらい、毎月の寺報も入れて、すぐに某住所にお送りさせて頂いた。とてもうれしかった。
この時インターネットはどこにでも繋がっていることを改めて実感した。どんな人が見ているか分からないという怖さもあるが、反面、会ったこともない人から問い合わせを受け、浄土真宗の話ができる…この回線は魔法の力をもっているようだ。
半面、顔が見えないことを利用して、誹謗中傷を書き込む人もいると聞いている。誹謗を書き込まれた方は被害者として対処でき、ネット上で消せば済むこともあるが…書き込んだ方の心情はどうなんだろう?
言葉は、時として鋭い刃となって相手を傷つける。同時に自分の心も傷付き、そのことで心が荒み、心を失っていくこともある。
「和顔愛語」とは仏教の教えの一つ。「顔」は人様に向けてあるもの。優しい笑顔で接しなさい。「言葉」は一度この口から放たれてしまうと、取り返すことはできない。だから、慈しみのある言葉で接しなさい。そう教えていただいている。(8.31)
「バザーはお浄土参りの準備?」
今年の秋法座(蓮仏教婦人会法座)もお昼の時間を使ってバザーを開く予定だ。「何を出そうかな~」押し入れなど整理しながら物品を探した。昨年も一昨年もバザーを開催したので、そんなに物がなくてもいいのだが、あるある…。「これらの物は私が往生したら全てごみ箱行だな」などと独り言を呟きながらの午後だった。
学生時代は京都に下宿していた。山口の実家を出るとき、最低限の荷物を送ったら、四畳半の間借り部屋でも広すぎるくらいだった。つまり、一人の人間が生活するうえでは、沢山の物はいらない。
現在のこの押入れの中身は、私の物欲を反映しているかのようだ。
「お念仏一つで救われる。念仏しなされ」とはお説教でお聞かせ頂くお言葉である。
「念仏」は仏道を歩むうえで、親鸞様がひとつ選び、お勧めくださった仏様の行である。
私はせいぜいバザーを通して自分の物欲の事しか思い至らないが、「お念仏一つ」でいいのだと仰せだ。そのごとく、身も心も軽く日々を送りたいと思う。でも…来年、もし生きて秋法座に遇うときはまた同じように、ごそごそと押入れを探し、バザーの準備をしているのだろうな。(8.29)
「八月の終わりに」
今年の八月もそろりそろりと終わりを告げようとしている。
久しぶりのコーラス練習の後、横山先生から「お疲れの様子ですね」と、声を掛けられた。「はあ…いろいろとありまして…」と、私の返答。
盆参りの間中、入院していた義母が退院できたのが3日前。やれやれと胸をなで下ろしているところだった。
義母はこの入院のことは何も覚えていない。入院中、意識が朦朧としていたわけではなく、比較的穏やかな院内生活。にも拘らず全く2週間の生活時間が記憶から抜け落ちていた。これが義母の病気、と改めて認識させられた。と同時に、入院中の介助が何かしら空しく感じられたのは正直な話。
昔の法話集を拝読していたら、「明日もなければ、昨日もない。今日この一瞬が生かされている。命を頂いている」ということが目に止まった。
これは今の義母がおかれている状況のこと…でも義母のことではない。私のことを教えてくれているお言葉に思えた。
夏の終わりは何かしら寂しい、空しい。
でも、今しかない命を頂いて、今を生きる…お念仏に支えられて。(8.27)
「西の空に」
猛暑の中のお盆のお参りだったが、ご門徒様の初盆と、市川家の初盆を残すのみとなった。
「あと少しだね」猛烈に歳を感じるようになった住職と私、お互いに励まし合いながらのお盆参りも先が見えてきた。
その最中、肺炎で入院している義母を見舞う日々…。
夕方、見舞いから帰る車の中から、目に飛び込んでくる夕焼けの空は美しい。一日の終わりの最高のご褒美を頂いている。
「この西の空の向こうに、苦しいことも、哀しいこともないお浄土があるのね。美しいね」と、話しながら寺に着く。あと何年この夕空を見上げることができるかわからない。苦しいことが多い娑婆世界だけど、留まることに限りがあるからこそ、愛おしい。
そして、かならず参らせて頂ける世界があるからこそ、頼もしい。(8.13)
「仏様が中心に座す家庭」
お盆のお参りを回らせて頂いている。電話でアポイントを取っているので、お家の方が待っていてくださり、一緒にお勤めさせていただく。夏のお勤めは宝林寺代々「讃仏偈」。ゆっくり勤めても20分くらいである。
おつとめ後「御文章」を頂きお焼香。それから、お家の方が冷たいお茶を出して下さり、しばしの歓談。のどかで平和な時間である。「仏様」が中心におられるご家庭は、とても居心地がいい。
年々、歳をとり話といえば健康を気遣うこと。身体が思うように動かず、自分たちが亡き後の家の心配など…。でも話の締めくくりは「仏様におまかせするだけですね」と言われる。「そうです。そうです。」と私。
先が見えない、暗くなるような話でも「仏様」が中心に座っておられる人は明るい。「歳をとるのも楽じゃない。でも歳をとって見えるものもある。ここが肝心。この一つを見せんがための寿命。全て「おまかせ」だったと、頷ける人生を、今、歩かせてもらう」そんな声が聞こえてきた。(8.8)
「雑念」
今年も無事、墓の掃除を終えることができた。今年は本当に暑い日が続き報道ではこの酷暑を「災害」と呼んでいる。
そんな中での草刈りだった。
年々、皆が年をとり、限界集落(?)と呼ばれている我が地区である。墓掃除参加者の数も減り、無縁墓や墓仕舞いされた所もある。確かに、お墓はその仕事を終えたが、そのそばから生き生きと草が生えている。刈っても刈っても生えてくる。その根性には敬服させられる。
今、地球温暖化が進み、人間の想定外の災害が世界中で起こっている。先の豪雨も、大型化した台風も…。子孫の代にはこの地球はどうなっているのかしら…限度を知らない人間の欲が、数々の災害を生み出していく。(地球はボロボロだ)
のびのびと生えている草たちを見ると、ほっとする。傷を癒す薬のように、傷ついた所を回復させてくれているようだ。この治療薬がいつまで功を奏し続けてくれるのか…。
宇宙から見ると、まだまだ日本は緑の森林色に写るという。念ずのみ。(8.6)
「8月スタート」
お盆参りも始まり、我が家でも初盆の準備が整った。そんなとき義母が入院。肺炎だった。
義父が往生して3ヶ月、私たちの体力の回復を待っていてくれたかのように、3ヶ月後の事だった。
連れ合いの死去に、余り反応を示さなかった(示せなかった)義母ではあったが、心の内では言葉にできない分、辛い出来事だったはずだ。
「おじいちゃん、まだお迎えに来ないでね…。」
見舞うだけで何もできないけど、朝夕、顔を見せに行くと義母の顔がほころぶ。その顔を見たくて、また私たちの病院通いが始まった(8.2)
慈悲に聖道、浄土のかはりめあり」(『歎異抄4条より』)
西日本豪雨災害が発生してから20日を迎えようとしている。未だに行方の分からない方の捜索が続いている。また連日の猛暑の中、被災地の片付けは思うように進まない、ボランティアの数も足りない、避難所生活の方々の物心両面からの疲労も蓄積されている…と、連日の報道を耳にする。
大半の方々が、こんな状況を耳にすると「なんとかして助けになりたい」と思う。でも実際にできることと言えば、わずかな募金を被災地に送ったり、足りないものを送るくらいのことしかできない。それをすることで、「可哀そうだけど赦してね」と、自分の気持ちを慰めているのだ。
親鸞聖人のお弟子さんが後に書かれた『歎異抄』の中に、聖道の慈悲、浄土の慈悲のことが書かれている。「聖道の慈悲」は「ものを憐み、悲しみ、はぐくむなり。だけど思うように助け遂げることはきわめて有難い(難しい)ことだ。」一方「浄土の慈悲」は「念仏して急ぎ仏になって大慈大悲心をもって思うが如く衆生を利益する(助け遂げる)をいうべきなり…」と。
私には分からない。お念仏申して、仏になり、初めて衆生を助けることができると仰せの事が…。
でも一つ分かったことがある。聖道の慈悲には限界があるということだ。一人一人の哀しみや苦しいことを解決しようと試みても、また哀しみが生まれる。人が生きていく限り、悲しみは尽きることがないということだ。ボランティア活動でも満足にたすけることができない。中途半端な手伝いで、後ろ髪をひかれる思いで帰ってきただけの事だった。
今、被災地の方々に私ができることは何だろう?(7.24)
「住職の畑でとれたキュウイ」
山の坂道を少し登ると住職の畑にたどり着く。畑といっても、こまめな手入れをしないで済む果樹を植えて、イノシシに耕してもらい、地続きのお隣の畑の栄養分を分けてもらい、育ってくれている(と言うと住職に叱られそうだが…。)
植物の生命力は凄い!大した手入れもしないのに、グングン伸びて、その時期がくると、ちゃんと実らせてくれ、その果報は私にまで届く。なんとも豪快な振る舞いぶりだ。
今、西日本では豪雨災害の爪痕に途方に暮れる日々だろう…それは想像するに容易くない。自然の猛威は怖い。人間は自然の猛威の前に何もできない。でもその力でもって、今回失われた物が穏やかで、でも確実に回復してくれることを念ずる。その回復の一助になりたい。(7.22)
「お堂でリトミック」(7.9)
1歳から3歳までのお子たちに声を掛け、リトミック教室をさせて頂いた。先生はお友達の辻田先生。
リトミック教室といっても、音に合わせて楽しむ、遊ぶ…という位のもの。ましてや1歳児である。個性の塊のようなお子達が、それぞれ動きたいように動く、遊ぶ。太鼓をたたいてみたり、走ってみたり////エネルギの塊のような子達が6人参加して下さった。
お昼はサンドイッチの軽食を食べ、おしゃべりした後、ビニールプール遊びが始まった。いやいや…充実した一日だった。
お寺に参ってきてもらうだけでも有難く…。(7.14)
「西日本豪雨災害の中」
山口別院では龍谷大学学友会30周年を記念して、学友会主催の「五木寛之さん」の講演会が開かれた。(7.7)
昨日は九州から山口にかけてひどい雨。開催も危ぶまれていたところだろう。前日から山口入りをされていたそうだ。
もちろん、講演会なので「お念仏」の話ではない。ただ五木さんが40歳になって心が疲れた時、ふと目にした龍大生の態度に惹かれて、門を叩かれたのが龍谷大学で、そこでの学びを通して感じられたことなどを話してくださった。
謙虚でどこかはにかんだ様子の五木さんは、きっと青年の心そのままに80歳を超えた今でも生きてこられたのだろうか…。
帰ってテレビを付けた。悲惨な豪雨被害の様子が飛び込んできた。呑気に講演会を聴きに行けたことに、どことなく罪の意識を感じながらも、今日の五木さんとの出会いを感謝した。(7.9)
「第20回仏教讃歌の集いを終えて」
6月まで、何かしら忙しく行事も一杯だった。7月1日は自坊の夏法座と仏教讃歌の集い大会がガチンコしてしまい…これまた大変だった。
幸い午前中のみ夏法座、午後1時からが讃歌の集いだったので、なんとか行事をこなせた。
私は仏教讃歌の集い大会の役員として朝からこちらの文化会館で待機していた。「お寺ではもう行事鐘が鳴ったかなぁ」など考えながら、仏讃歌の準備のお手伝いをしていた。
考えてみると、坊守になってから寺の法座にいないのは今回が初めて。前日、法座の準備を終え、後は当日のご講師のお接待のみ。今回はお昼はお弁当をご用意しているので配ってもらうだけ…大丈夫、大丈夫と思いながらも、どこか心配と後ろめたさがある。折角のお聴聞の機会ものがしてしまった。
気落ちしているところに、学部時代の親友が花束をもって聴きにきてくれた。鮮やかな色の花束…オレンジ色がぱっと心を元気にしてくれた。
オレンジ色はビタミン色というけれど、本当だ。
ありがとうね、友よ、花たちよ。(7.4)
「満中陰」
先週の土曜日(23日)に義父の満中陰を迎えた。身近な者だけでお勤めをして、納骨を済ませた。
その日、友達からお花と香り高いお香が送られてきた。白い花と緑の葉は納骨を済ませ、ほっとした気持ちや寂しい気持ちを和ませてくれた。
一週間毎、お勤めをする中で仏華も白一色だった花から少しずつ色花が加わってきた。私の心映えを表しているように…。
花たちはどんな花でも仏様にお供えするにふさわしい。でも、中陰の内は白い花が一番心を和ませてくれた。私の勝手な想いであるが…。
「大阪地震」
昨日の朝携帯電話に緊急地震速報が入った。気が付いたのは発生してから1時間たった朝9時過ぎの事だ。
大阪には嫁いだ長女家族とその親を含めた親戚がある。電話はつながらない。
携帯のラインで連絡、すぐに返事が返ってきたので一安心。
テレビを付けてその被害状況を見る。
通勤通学の時間帯で駅に足止めを余儀なくされた人達の様子が映された。地震発生時の揺れ動き、物が落下する映像が何度も放映された。
「孫は、娘は、怖かっただろうな…」まだ生まれて半年の孫、娘夫婦、親戚、知人、お寺…自分に近い人から顔が浮かぶ。
この地震でお亡くなりになった方は現在では4名(内、登校途中の小学生1名)
あてにならないこの娑婆の世界をまた見せつけられた。(6.19)
「お堂Deコンサートを終えて」
6月16日、晴天に恵まれた土曜日にコンサートを開きました。今年も沢山の方が遠方からも聴きに来てくださいました。(下関市や萩市からも。今年は80人くらい?)
田舎で公共交通機関の本当に少ない小野に、街からわざわざ来て下さることに感謝である。
今日は義父の6七日でもあった。義父がお世話になったデイサービスのお仲間も介護ヘルパーさん達と来て下さった。義父が皆さんを連れてきてくれたのね…。昨年の今頃は義父も義母も車いすでお堂の隅に座り、歌を楽しんでくれた。義父は今年はいない…。
賑わいの後、住職と七日のお勤めをして一日が終わった。ほっこりとしたら、急に淋しく思えてきた。
「お聴聞」
山口別院の永代経法要に参らせていただいた。本当は私は日曜日が参拝の当たり日だけど、今日(8日)も参らせて頂いた。
ご講師のお話は淡々と進んでいく。お浄土について話して下さった。「死んだら何処へ…」他の宗派との違いを教えていただいた。「死んだら何処へいくの?浄土があるのかないのか、分かりなさい」ではなく「聞いておきなさい」という教え。だからそこに座ってお聴聞するだけ、お念仏申すだけの教えであることをお聞かせいただいた。ありがたいなあと思った。
これまでお聴聞させて頂いてきたけど、仏様の前に座らせてもらうことが嬉しい、有難いことなのだと、この身に届いた。(6.9)
「またね。」
伊佐のMさんがご往生された。今日は通夜。行年92歳。
Mさんはしっかり者…という言葉がしっくりくる、まさにしっかり者の代表者のような方だった。娘さんの手厚い介護の中、病気をしてもずっと自宅で生活をされていた。
早朝に息を引き取られたのだが、前日の夜も母娘の会話を終え床に就かれたそうだ。
臨終勤行に参らせてもらい、お顔を拝ませて頂いた。安らいだお顔で、眠っておられるようだった。
昭和の始めから、平成を終えようとする時代を生き抜いてこられた。昔だったらMさんのような肝っ玉母さんはよく目にした。この母さんの言うことを聞いていたら間違いない…そう思える人だった。
お座が立つときは必ず参って下さった。私や寺族の者のことを「お寺さん」と呼び、大事にして下さった。
「またね。」「また会おうね、お寺さん」そんな一言が聞こえてきそうなほど、あっぱれな方だった。(6.3)
「これでいいと言える人生」
住職と朝の散歩をしながら「もし明日寿命が尽きるとしたら、今日は何して過ごすかな?」と話す。
「お世話になった方に当てて手紙を書いているかも…」「でも、余りにも多すぎて間に合わないな」と、私。
「僕は日日のことを、やはり淡々としているだろうな」と、住職。
出会うべき人、よき友、家族、そして何よりも出会うべき教えに遇うことができた。残りの寿命があるとすれば、それは「もうけもの」。
だから「これでいいと言える人生」そのままに生きていく。(5.31)
「3七日のこと」
明日で義父が往生してから3七日になる。
義父の葬儀の日から、少しずつ落ち着いてきている。今回のことで2つのことを学ばせてもらった。
1つ目は、「門徒さんはやはり立派だな」ということ。現住職と百を超える門徒さんの葬儀をお勤めさせて頂いた。規模の大小はあったものの、喪主様始め、遺族の方々は最期のお別れの葬儀を勤めるのに精一杯の心を尽くし、勤めて下さった。終えてからも仏事は続くが、真摯に向き合い、法事を勤めて下さっている。当たり前のように見えて、実は大変なことだと教えられた。
2つ目は、「体は生きようとしてくれている」と教わったこと。せめて満中陰を終えるまでは精進のまねごとをさせてもらおうと、肉・魚系のものは頂かないように努めた。2七日が過ぎると身体の力が低迷し、肌がカサカサになった。「おやおや…」と思っていると、その内、落ち着きだし、肌にうるおいが戻ってきて、新しい気力も湧いてきた。
身体は自分が思う以上に自分のことを心配してくれている。生きようとしてくれている。細胞の1個1個が私の思いを超えて生きている…ということを教えられた。
明日は3七日。沢山のものをくれた義父に、有り難う。(5.25)
「久しぶりの雨」
今日は朝から雨、晴れの日が続いていたので久しぶりの雨…。蒸し暑さを思わせる日が続いていたので、雨はほっこりと気持ちを落ち着かさせてくれる。他の用事は置いといて、天から降る雨を見ている。頭がくらくらしてきて、私も雨になって流れていきそうだ。
「忙しい」が口癖になって、空を見上げることがない日々が続いた。
今日一日はずっと好きなことをしていたい。(5.23)
「葬儀のあとで」
義父の葬儀を終えて1週間…振り返ってみると忙しかった。2日後にはご門徒様の葬儀があり、この日はさすがに体力の限界だった。悲しみも限界にくると涙すらも出ない。
導師を勤めて下さった養福寺様に御礼参らせていただき、お世話になった病院の方々、施設の方々、ケアマネジャー様、訪問看護の先生…思えば義父の11年間過ごした生活の場は狭いものだった。それでも限られた方々が家族の様に思って下さり、在宅での介護を助けてくださった。
最期の施設は寺から車で10分、義母もお世話になっている所だった。4ヶ月間を一番大切な人(義母)と過ごすことができた。
ご挨拶に行き、義父の荷物を引き取りに行く。段ボール2箱…僅かなものだった。そのほとんどが衣類だった。使ってもらえるものは施設に置いていくと、何も残らない。
「お浄土に参らせていただくのに、何も要らないね」
義父の笑顔は優しかった。(5.16)
「お世話になりました」
6日の朝、義父が往生いたしました。神奈川県から山口の寺で住まわせていただくようになって11年間、皆様に本当にお世話になりました。ありがとうございました。
こちらに帰ってからも脳梗塞や誤嚥性肺炎を発症し、何度も救急車で病院にはこばれました。今年の1月に胃ろうを行いやっと介護施設に落ち着いた矢先のことでした。5月の連休に県外に出ている孫たちと写真を撮りました。曾孫の顔を見届けてお浄土に還っていきました。(5.7)
「お浄土から」
今年の降誕会(親鸞聖人のお誕生をお祝いする会)も晴天の中、無事終えることができた。
前日の準備をしながら、ふと「あの方も、お浄土に還られたな。朝早くから、お餅つきのお手伝いをして下さったあの方も、この方も…」と、想った。
4月は近所のご門徒様の葬儀が続き、より寂しさがつのった時だった。
Iさんは、ご往生される2週間前に、筍をお斎にと…持って来て下さった。いつも撒き餅を小道具で小さく切る役をしてくださっていた。今年はここにはいらっしゃらない。
今年はお浄土から、あの人、この人が一緒にお祝いしてくださっているーそう思っても、寂しい。
賑々しく終えたお祝いの後は、とくに寂しい。(5.2)
「念仏者は無碍の一道なりpart3」
人様には順風満帆にみえても、当たり障りだらけの人生であるーと振り返ると、思う。
そもそも、お寺で最初に生まれたのが女子の私であったことは、みなさんをガッカリさせてしまったに違いない。これはどうしょうもない障りである。
「宿業」のことを教えてもらったとき、「業」を引き受けていく人生が開けた。誰のせいでもない、この自分の身に起こったことは、宿縁によるものだから、良いことも悪いこともない。
「生くさ坊主を生きて、お念仏させてもらう」祖父の歩いた道を、私も歩ませていただく。(4.24)
「念仏者は無碍の一道なりpart2」
西本願寺でお得度を受け、僧侶の末席に加えて頂いたとき、自分が新たに生まれ変わったような気がした。「もう、後戻りはできない」僧侶として描く人生を胸に刻んだ…あれから35年…何も変わっていない。
普通に俗な生活をしている。結婚・子育て・介護と、一通りしてきて、その傍らで葬儀や法事といった仏事をこなしてきた。
ドタバタしながら、袈裟を身に付け、汚い手でお念珠をかけ、肉や魚を平気で食べる口で、お念仏を称える。そのくせ自分はお寺なのだからと…何か人と違って、立派でなければならないのではないかと、錯覚しながら生きてきた。(4.22)
「念仏者は無碍の一道なり」
先々代である私の祖父が、口癖のように言っていた言葉である。幼い私にはその意味が解からず、「お爺ちゃんの言葉」くらいに思っていた。
祖父はお酒が好きで、ご門徒さんの家へ行くと、よくお酒をご馳走になっていた。一緒にお参りしていた幼い私は、祖父が楽しそうにおご馳走になっている時間をもてあましていた。
長じて、祖父のお坊さんとしての姿を客観的に見るようになると、「真宗のお坊さんは、生くさ坊主」と批判的な目で見るようになった。
でも、いざこうして私も、同じ僧侶の道を歩いてみると、いかに真宗僧侶の道が厳しいものか。と…考えさせられる。
日常は在家の皆さんと一つも変わらない生活である。変わらないどころか、仏様を悲しませるようなことを沢山している。(次回続く4.17)
「第13世住職の法事」
明日は先々代の幸晴住職の法事をお勤めする。先々代は私の祖父であり、戦中、戦後の宝林寺を守ってくれた人である。
行年90歳は聖人様と同じ年まで生きてくれた。毎朝の梵鐘を突くことと、お勤めが日課の人だった。
法座の終わりの挨拶には「念仏者は無碍の一道なり」と口癖のように話していたのが思い出される。
頑固で、一見、亭主関白の祖父だったが、祖母の小言?助言に耳を傾け、欲も少なく、ご門徒様からは慕われた人だった。
祖父は私が思うに、お坊さんらしいお坊さんだった。(4.13)
「愛のうた」
新学年を迎える子供たちの気分で、ライトコールのメンバー達も新しい曲に入りました。
ずっと歌ってみたいなと思っていて楽譜を用意していた曲である。初日、音取りをして、試しに合わせてみたら…思わず泣けてきた。美しいハーモニーとその歌詞が、ぐっときた。
「愛のうた」作詞作曲:山崎明子
小さな命が 生まれ来ること/ 誰かと寄り添い ささえあうこと
君と手をつなぎ 歩く道のり/ ともに笑い合い 涙すること
見えない優しさが 沢山あふれている
人は誰かと 一緒に生きていくものだから
独りじゃない僕がいるよ/ 愛があふれている
幸せに包まれている/ 今 生きている
仏教では「愛」という言葉はあまり使われない。「愛欲」などといった、我欲を表すとき「愛」という字が当てはまる。「愛」すらも自己中心的な貪欲であるとお諭し下さっている。
上の歌詞の「僕」は「仏様」の心である。
誰かと寄り添い、笑いながら、泣きながら生きていく人生。でも、どんなに「愛」に囲まれていても、独りの寂しさは拭えない。孤独な道のりである。その私にどこまでも寄り添い、一人にさせない「僕」がいてくださる。その存在あればこその「幸せ」であると。
歌いながら、そんなことが思われて、泣けてきた。(4.8)
「老いてなほ ひこばえ見守る 親桜」(裕子作)
友達が俳句を送ってくれた。「ひこばえ」とは(孫生の意)で伐った草木の根株から出た芽、の意味らしい。
今年も満開の桜を愛でることができた。自由に枝を伸ばし花をつける桜の木もあれば、場所によっては剪定され、切り取られた枝もある。でも、そこからまた新しい枝葉をつけ、百花繚乱、この時期に合わせて花の舞を見せてくれる。眩しい季節である。
私はこの時期の眩しさに気後れする。外が明るければ明るいほど、置いてけぼりにされそうで…怖くなる。この時期はやや苦手である。
目の前の小さな庭の桜の木は「一心会(仏壮年会)が発足した記念に植えたものである。20年も経つと、枝葉が門徒会館にかかるようになり、あちらこちらに剪定のメスが入っている。太い枝分かれした幹もばっさり…痛々しく思えるところから若い芽が出てきて花をつけてくれた。見守るしかない親桜だが、自らの栄養や水を分け与え、その成長を助けた。
自然の営みはいつも同じでシンプルだ。
親桜は、老いてなお、雨、風のたてとなり、栄養を与え続け、ひこばえが独り立ちできるようになるまで、見守っていることだろう。(4.5)
「私でよかった」
某学校の学長が脳梗塞になられた。リハビリのお陰で現在は仕事に復帰されている。キリスト教の学校ということもあり、以前洗礼を受け、クリスチャンである。
病後、コーラスのAさんから聞いた話が心にひっかかっている。
退院して先生がAさんのうちを訪ねられたときの話である。
「私はこの学校の校長として3年です。でも、既に神様から大きなプレゼントをいただいた。(それがそれがこの病気です)」と話されたそうである。(Aさん自身も小児麻痺を患ってから、以後少し自由がきかない。)
私でよかった。今の私でよかったと言えるのよ…と。先生と自身の身体の事を思ってか、言われた言葉だった。
とても、私には言えない…重たい言葉である。
キリスト教では、自身の身に起きた不幸のことも全て神様から愛されている印だと受け止める。でも、同じ愛されるなら、不自由でなくしてほしい…俗な私は、こう考える。
こんな不平不満の日々を暮らす我が身に寄り添い、心痛め、悲しみ、心配して下さる。決して一人にさせない、離さないと言われる佛さま、阿弥陀様に出遭うことがなかったならば、私が私でよかったと言える人生は、私においてはないように思う。(3.28)
「いいところ」
若院や若坊守から、いつも楽しく菩提樹の原稿を読まさせてもらっている。そして、教えられることも沢山ある。今回は若坊守の原稿「こんなところにもまんまん様」に微笑ましく、有難かった。
同時に、読みながら以前、広島真宗学寮に講義に来られた松尾先生のご法話を思い出していた。
松尾先生が手にされたものは、富山の別院から出された機関紙であった。その中では、お寺の日曜学校に通う幼子の会話が紹介されていた。
「幼児が某寺のご住職様に「わたし明日いいところにいくの」と嬉しそうに報告に来た。住職様は「いいところって、どこにいくの?」と尋ねられたそうだ。(住職は前もって若いお母さんから温泉に家族旅行することを教えてもらっていたが、あまりにも嬉しそうに話す幼児に沢山お話させてあげたかったのかな?)幼児は「いいところ…いいところはいいところなの」と繰り返す。
我々大人は誰かから「いいところに行こう」と誘われたら、「いいところって何処にいくんだー」と自分が納得出来るように聞き返す。だが、幼子には聞き返す必要がない。親が「いいところにいくよ」と言えば「いいところ」に連れていってもらえるとー安心して任せるだけだから…。
阿弥陀様の親心も同じ「いいところ(お浄土)に必ず連れていくよ。まかせておくれ」との呼び声に「はい」とお念仏申すだけである。
幼児のようにはいかない、しぶとい根性から離れられないわが身だが、親様は常に我が身を案じて下さっている。かたじけないな。(3.26)
「さよならを言わなくていい世界」
東京の明西寺様の佐々木了俊先生から時報が送られてきた。とても立派な冊子で、読み応えのあるものだった。先生は昨年伝道院から我が寺に布教実習に来られた布教実習生のお一人である。今は卒業され自坊でがんばっておられる。
幾つかご法話が掲載されていた。その中「報恩講法要」(延立寺住職・松本先生)が紹介して下さった文章を紹介します。
「今月の6月、タレントの小林麻央さんが亡くなられた時に、俳優の仲代達也ツイッターに寄稿された文を紹介します。「私事で恐縮ですが、今日は女房の命日です。21年もたつのに、いまだに彼女に支えられて生きております。いったいどれだけ先のことまで考えていったのかと、感謝に加え年々お疲れさんという気持ちになっております。でもこういう共存の仕方もある。海老蔵さんにもがんばってもらいたいなと不意に思いました。陰ながら」
これは佛教が教えるいのちのありようにまるまる重なります。人は死してなお、ひとを支え続けます。さよならを言わなくていい世界を私達はすでに恵まれているのです。」
なもあみだぶつ (3.22)
「小野小学校卒業式」
昨日は母校である小野小学校の卒業式であった。私は式のピアノ伴奏で2名の卒業生を見送ることができた。
数か月も前から、先生方は準備を重ね、子供たちは卒業生を送る「ことば」や歌の練習を重ねてきた。いざ本番…緊張の中、歌が始まった。練習では「発声練習のように歌いましょう」と、コーラスの発声を使って美しい声で歌っていた子供たちも、緊張と卒業生に対する強い思いからか、普段の地声が聞こえた。
でも、いいのだ。練習通りにできたら文句ないが、子供たちの思いは十分伝わってきた。
私は数回の練習に立ち会ったが、とても楽しかった。透明な美しい時間を過ごさせてもらえたことに感謝。
おめでとう卒業生!自分が自分でよかったーといえる人生を歩んでください。(3.21)
「みんなの音楽会」参加!
昨日(3.18)は不二輸送機ホールにて音楽会に参加してきました。
横山典子先生のお母様で純子先生主催の30回のラスト音楽会。フルート・バイオリンなど様々な楽器の演奏から、コーラス・独唱などまで、バラエティーに富んだ音楽会であった。
私達は「重誓偈」「いのちの歌」を歌った。両曲とも何度か発表しているものだが、これまでは満足いくものではなかった。今回、四重唱の重誓偈」をきちんと仕上げることができた。
勿論、実力相応の歌だったかもしれない。でも、今回は団員の讃仏の心が一つになり、美しい仏歌となった…と、自画自賛。
西洋音楽が大半を占める音楽会の中、仏教讃歌が染みるようにホールに木霊する。美しい時間であった。(3.18)
「花粉症に悩む」
今年の春はさえない。このところ、頭痛で目覚め、喉が焼けるように(ちょっとオオバ―かな)痛い。昨年まではなんでもない大気の汚染も妙に気にかかる。
身体がデリケートになったのか…。わからないが、患ってみて初めて分かる辛さ。頭の中ずーっと、どんよりしていて、気怠い。
〇〇さんもこんなだったのか…花粉症を軽く考えていてごめんね。(3.17)
「3月11日」
あの日から7年目を迎えた。東北大震災の記憶は少しずつ薄らいでいる。でも当事者にとって、復興とよべるには、まだまだ先の話だろう。
その日の新聞を見てがっかりした。当然一面は、7年目の東北大震災のことで埋めつくされるだろうと思っていた。あの日のことは日本中の哀しみだったから…。
でも違って、政治を混乱させている問題が紙面の半分を占領していた。せめて11日の日くらい、あの日の悲しみを留めて、亡くなった人達に手を合わせることができないのかと…ちょっと思った。
安全で美しい国、この日本の片隅で、子や孫が自由に遊びまわれることを切に念じる。(3.14)
「広島真宗学寮ーその1」
先日、住職に誘ってもらい広島にある真宗学寮の特別講座を受けた。講師は富山県からお越しの「松尾宣昭 和上」で住職とは岡先生に教えを頂いた学友らしい。
かねがね松尾先生の事は聞かされていたので(学生時代のこと)、お会いするのがとても楽しみであった。住職から聞いていた印象とは少しだけ違い(先生は京都大学哲学専攻から龍谷大学の院に進まれた秀才)良い意味で期待を裏切って下さった。何ともいえない暖かい和上様であった。
当日、100人は超えている受講生に、富山のお饅頭をお茶うけのお土産に持って来て下さり、(御饅頭は重たかっただろうに…)そのお心配りに感動した!(講義内容は次回)
「春の…」
昨夜は春一番の嵐?がふぶき、大雨をもたらした。気持ち的にはもう春です。
義父母の施設ではインフルエンザが流行り、しばらく見舞いに行けなかったが、昨日やっと許可が出たので住職と見舞いした。最初は義母の顔を見に行き、車いすでそのまま義父のいる棟に義母を連れていった。
久しぶり(2週間ぶりくらい?)の親子・夫婦の対面に、義父母は手をとり喜んでくれた。心配していた義父の体調も落ち着いたようで、前回よりも顔色がいい。施設の皆さんが心を配って、お世話してくださっていることがわかり、有難い。
両親の最晩年に、同じ施設でお世話になれて、お互いの顔を見ることができて、本当によかった。幸せなことだと思う。
胃ろう、たん吸引、リハビリと、義父には沢山の障りがある。が、今日、義母の手を取り合い、元気で生きていてくれることが嬉しい。(3.1)
「いのち」
今月、お陰様で孫が1歳の誕生日を迎えることができました。若夫婦を見ていると、自分たちの子育てもこんなだったなと、昨日のことのように思い出されます。また、我が親たちには、子育てはいつの時代も同じで、大変な思いをして育ててくれたことに、孫を通して今更ながら感謝です。
そして、ご門徒さまを始め、沢山の友人・知人が目に見える形・見えない形でお育て下さいました。本当にありがとうございます。
仏教の出発点は「人生は苦である」であり「生老病死」の苦を明らかに見ることで、その苦しみからの根本解決を教えてくれています。
例えば、我が孫が1歳になり喜んでいますが、この私も一つ歳を取ったわけです。確実に順調に「老」を頂いています。やがて、順調にいけば、自分の身の周りの事が自分でできなくなる(排泄や呼吸までも機械に委ねることがあるかもしれません…)「老苦」に近づいたと言えなくもないです。
「もうこの歳になると、年なんていらんね。誕生日はめでとうない。老いて役に立たなくなっていくだけなのに」と言われた方を思い出しました。
我が子・孫の誕生の瞬間は天地がひっくり返るくらい嬉しく、喜びに満ちた「めでたい」ことだったのに…。老いて役に立たなくなるとこの命は「めでたくない」のでしょうか。また、この命を頂いて、自分の想い通りになる時は「めでたい」命なのですが、いったん思い通りにならないことが起こると「めでとうない」命になるのでしょうか?
「生老病死」苦の人生を生きる身の上で、何が「めでたい」のか…。
私の頂いている答えは一つです。それは「仏様から賜りたる命」そして「願われているいのち」だからです。
今、この瞬間を生きている命は、私の善し悪しの想いを超えて、生かされているいのちです。多くのいのちを犠牲にしてある命です。「生きよ」と願われ、「われにまかせよ、必ず仏にするぞ」と仰せの命です。
小さな自分の殻に籠って「喜ぶべきことを喜べず」「悲しむべきことに泣けず」そんな私にまで仏様の光は注がれているのです。
だから「めでたい」「尊い」いのちなのです。
毎日、一瞬一瞬が誕生日。願われてあるいのちに「ありがとう」そして「おめでとう」(2.26)
「 枯 葉 」
これは何?
枯葉の写真です。
山の散歩コースの傍に敷き詰められていました。
若葉のように青々とした生気、秋の紅葉のような鮮やかさはありません。
でも、素敵なカラーグラデーションです。
寒い時は小さな虫の寝床になり、暖かい春が来る頃、そっと土に還っていくのでしょう。誰も気づかぬうちに…。
一つのお役目を終えるがごとく…。(2.23)
「2月は逃げる…」
二月も22日と残すところあと1週間!あらまあ…。
今週は比較的のんびりと過ごせた。頼まれもしないのに、オリンピックの応援団長として、夜更かししながら日本選手を応援している。(我が家の生活リズムからして10時を過ぎると夜更かしコースになる。ただし朝は変わらず4時起き)
若い10代20代の子達が無心に競技をする姿は、見ていて気持ちがいい。日の丸を背負って戦う姿は涙が出るくらい感動する。
こんな年齢の時…自分は何をしていたのだろうと、若かりし自分を反省し、恥ずかしくなる50代の大人も多いのでは?私もその中の一人だ。
2月は気が付けば終ろうとしている。人生も似たようなところがある。
慌ててもしかたないけど、急ぐべきところは急がないと…。namoanidabutu
…。(2.22)
「IT化とカーリング女子(カー娘)」
朝の住職との散歩で話題になること。これからはロボットの時代。その時、人間はどうなっていくのかね。社会はどう変動するのかねーと…。美しい景色と美味しい空気には似つかわしくない会話?である。
オリンピックでは日本のカーリング女子の快勝劇が続いている。昨日は強豪スエーデン戦で、劇的勝利をおさめ、決勝進出に大手をかけた。
不利な形成の中、相手のスキップの痛恨のミスで日本は勝利をものにした。カー娘たちの笑顔と無邪気に喜ぶ姿が、何ともかわいらしく、またフアンになってしまった。
ところでこの勝利、明らかにスエーデンの選手がミスしたことで得られたもの。負けたスエーデン国からのプレゼントだともいえる。
完全なるロボットの世界観には「ミス」はないだろう。プログラムされたことを正確に忠実に実行していくだけだ。素晴らしいことだけど、少し味気ない気がする。(2.20)
「オリンピック」
今、お隣の国、韓国でオリンピックが開催され、連日熱戦が繰り広げられている。
スポーツの世界は勝ち負けがはっきりしていて、わかりやすくていい。
スピードスケーターの小平奈緒さんが1000メートルで銀メダル、高木美保さんが銅メダルを獲得し称賛。でも当人たちはまだ金メダルに向けて次のレースに心を寄せている。
小平奈緒さんがレース後のインタビューで座右の銘にインド独立の父ガンジーの言葉を上げていた。「明日、死ぬかのように生きろ。永遠に生きるが如く学べ」
「ガンジー」の映画を学生の頃見て、とても感動したことを思い出した。私も同じものに触れているはずなのに、小平選手は自分の血肉として言葉をとらえているところがすばらしいと思う。。オリンピックという最高の舞台で競う人の覚悟を見た気がした。
「明日死ぬかのように生きる」なんて出来ない。そもそも怖くて考えることも受け入れることも…。でもそんな私でいいと言って下さる方がある。
阿弥陀様は本当に優しい。(2.16)
「寒い~」
今朝は寒さで目が覚めた。
朝一番にすることーラインを開きニュースチエック。孫二人の「みてね」写真を見る。
昨日は、義父の退院日だった。病院から義母のいる施設に移動。棟は違うがやっとまた夫婦で同じ場所にいれることになった。今年で御年92歳の義父…よく退院できたねと住職と喜んだ。
胃ろうをしているので入院してから体重が20㌔も落ちた。まるで別人の様相で、見ているのが辛くなる時もある。
でもまだ頭はしっかりしていて、会いに行くと喜んでくれる。さすが大正生まれだなと感心する。身体に芯棒が通っていてぶれない…こんな生き方を真似ろといわれても、昭和の戦後生まれは出来ないな(私のこと)。
今朝の寒さくらいで、音を上げるくらいだもの…
そうこうしているうちに昭和も終わり、平成も終わろうとしている。(2.8)
「ちらちら雪」
今年はちらちら雪が多い。昔に比べたら、このくらいは「雪が降った」とは云わないよ、と言われそうだが…。
雪が「白色」でよかったなーとは住職の感想。確かに、降る雪が赤や青、黒色だったら最悪かもしれない。白色は安心して見ていられる色だ。
それに、何気ない景色が、雪に包まれると一変して、とても高貴な景色に変わる。
ただ、降る量はほどほどにしてほしい。(2.5)
「お取り延べ報恩講」
昨日は、同じ組内のお寺様の報恩講にお参りさせて頂いた。
昨日から引き続き、午前中のご縁であった。
2日目なので参拝人数は前日よりは少なかったらしいが、それでも前日と同じように七条袈裟を着けられたご住職と、若院さま、新発意さまがお勤めに就かれ、丁寧に「お正信偈」を称えて下さった。親子孫、三代に渡ってお念仏が相続された姿を見させて頂く…有難い法縁であった。
田舎における、過疎化・高齢化に伴い、お寺の法座も年々寂しくなってきている。だが、こうして淡々と毎年報恩講を、日本各地のお寺様が法座を開いて下さる。そのお陰で、私にまでお念仏が届いて下さった。有難い。(1.29)
「1月は行く・・・」
「昨年は忙しかったから、今年は予定はあまり入れず、どっしりと構えて仏事を行っていこうね」と住職と話したが、気が付くと1月のカレンダーはメモで埋まってしまっていた。
ここのところ、日本列島は記録的な寒波に蔽われ、各地で雪の被害が出ている。雪の多いところは命を脅かされる事態…大変だ。
1年を通してみると、雪も降ってくれないと水不足など影響がでるので困る。けど「そこそこ」の量で結構だ。何事も度が過ぎると恨み節に変わる。
ちらつく雪の中をすいすいと泳ぎ楽しむつがいのカモ。鳥達は空を飛び、地を歩き、水を泳ぐ万能選手だ。自由に何処へでも行ける鳥に憧れたこともあった。
けど、今は、ここで、カレンダーとにらめっこしながら生きる(1.26)
「葬儀の後で」
葬式を終えた2、3日間は何もする気が起こらず、心がふわふわしている。何をするにも、気怠く上の空といった状態。情緒不安定になり、わけもなく哀しくなる。
こんな時、心を休めるためにひたすら睡眠をとる。
葬儀が日常というお寺さんもあるだろう。その精神力と体力には頭が下がる。葬儀はご往生された方の、今生最後の大きな仕事。そのお手伝いをさせて頂くのが僧侶だと、頂いている。
感情を押し殺して、ご往生された方の代わりにお勤めさせて頂く。一言一句が仏様のお説法だから、慎重に慎重に勤行する。回を重ねる度、少しは慣れてもいいものを…緊張の度合いは、出たての頃と変わらない気がする。
葬儀を終えたあと、自坊に帰る。押し殺していた感情が一気に溢れて、疲れて、爆睡する。(1.23)
「春はそこまで」
大寒を迎え、都心では大雪。明日も積雪に注意とのこと。
慣れない雪の対策に苦労が多いことだろう。
明日は西日本でも寒さが益すとのこと。そんな中でも春は着々と準備中。バッサリと剪定された梅の木も蕾を付け始めた。木々たちはどこで季節を感じるのだろう。
この古木たちは、私がいなくなった後も、ここで生き続け、季節ごとの営みを続けるのだろうな。(1.22)
「悲しみの」
昨夜、ご門徒さまの訃報を頂き、住職が臨終のお勤めに参らせて頂いた。入院生活をされていた方で家族の方からは「悪い状態」と教えていただいていたので、電話が鳴るたびびくっとさせられた。
まだまだ平均寿命からしたらお若い。ご家族様にとっては、悲しいというよりは、悔しい気持ちだろう。
病気の告知から7年…大きかった身体も半分に細られた。
お浄土があり、還る処があると…。お伝えすることができた。
ご家族様には、今はまだ何も考えることはできないだろう。けど、きっと、悲しみの先には安らぎがある。(1.18)
「阪神淡路震災から23年」
今朝のラジオから、阪神淡路震災から23年が経ったことを知った。もうそんなに経ったのか…。
記憶の中からは、薄れていっている。
だが、テレビをつけて震災の映像が映し出されたショックは今でもはっきりと覚えている。大都会の街並みが焼け、黒煙が立ち登り、いつ止まるともわからない火の勢いに恐ろしさで鳥肌がたった。学生時代に訪れたかもしれない街並みが消えていく…。しばらくは何もする気が起こらず、ただテレビの前で映像を見続けた。
まだまだ震災前の日常をとりもどせない方があると聞く。
日々の些細で何気ないことが、どんなに大切なことだったか…失って初めて分かると教えて頂いた。(1.17)
「お浄土から」
山口家のぺトちゃんが亡くなった。昨日はお悔やみに…。
時々お寺のホームページにも登場してくれて、可愛い姿に慰められた。愛犬の死は辛い。
お勤めが終わった後「犬はすぐにはお浄土には参れんかね?」という話になった。その時、以前住職と話したことを思い出した。
時々思うんだ、と住職。「全てのありとあらゆるものが、自分をお浄土に導くためにやってきてくれた還相の菩薩さまではないかと…。草や花、木々やそよぐ風、動物たち、生きとし生きるもの全てだ。家のしろ(昔飼っていた犬)も、本当に慰めてもらった。しろは形を変えて、この家にやって来てくれた。いつも傍にいてくれた。子供たちと遊んでくれて、どんな時間に帰宅しても、一番に出迎えてくれた。寄り添い、辛い時も助けてくれたよ」
お浄土から私を救わんがために、仏様がありとあらゆる形に変えて現れて下さる。だから心配はご無用。
これまでの沢山のことに有難うぺトちゃん。(1.15)
「久しぶりの…」
4時半、カーテンを開けてビックリ!久しぶりの雪景色が目の前に…昨朝のことだった。
「美しいな」と見惚れながら、朝の事をこなす。その内しらじらと明るくなって、のろのろと走る車の影が見え始める。雪が降ると、町全体の動きがゆっくりして見える。
通常の日であれば、田舎道といえどもアスファルトで整備された道、そこを大きなトラックが猛スピードで走り去る。「みんな忙しい…」
住職は昨日からの布教で出講中、話す相手がいない家の中は静かだ。今日は昨年暮れからできなかった掃除と片づけをした。「これ、必要かなぁ?」というグレイゾーンの物が沢山出てきた。
沢山のグレイゾーンの物達を抱えながら、握りしめながら生きている。
今年、来年、いつになったらこれらの物達を手放す事ができるかしら…。(1.11)
「七草粥」
新年が明け、そろそろスタートしたと思ったら、もう今日は9日…なんとなんと!
3日からずっと参拝客があった。昨日は少し落ち着いたので七草粥を作った。よく考えると7日を過ぎていて、あらまあ~という失態だった。
しばらく朝の散歩をやめていたが、また再開して住職と歩き始めた。
冬の小野湖、野の山、草、木々が、変わらずそこにある。この色合いから、後2ヶ月もしたら明るい色調に変わってくる。
自然が織り成す色合いに心を染めながら、山を歩く。
「あとどれくらい、一緒に散歩ができるかね」そんなことをつぶやきながら、歩く、歩く。(1.9)
「新年の見舞い」
1月3日は(昨日)礼参の接客の後、義父母の施設・病院をはしごし、見舞った。
いつもは介護関係者や看護師さんで活気にあふれる院内も、今日はさすがに少人数だ。どことなく寂しさを感じる。
住職は二人に来た年賀状を一枚一枚読んで説明をしてあげていた。
義父の同室のおじいちゃんにも奥さんが来ておられ、少し話しをした。義父よりは若く見えるけど、80代はゆうに越えておられるおじいちゃんの奥さんだ。そこそこの年齢だろう。
「見舞う家族は私だけなの」と言われた。40代の時、御子息が亡くなり、以後二人だけで生活を送ってこられた。「ここに来ると元気をもらえるのでね」と、奥さん。
義父同様、言葉がでないので会話ができない。話しかけても分かっているのか、それもわからない。でも、ここに来るだけで元気になれると言われる。
そのことを私に話される奥さんの境涯を考えるとせつない。
一人ぼっちで生まれ、死んでいかなければならない。その寂しさよりも、後に残される寂しさの方が辛い…と。
本当に、私も辛くなった。奥さんに仏様の願いが届くように念ずることしかできなかった。(1.4)
「明けましておめでとうございます今年もよろしくお願いします」
平成30年も除夜会の後、本堂にて勤行、住職法話で始まった。
ご法話の中では、昨年、大晦日にご往生された隣寺の前前坊守様のことが話された。
この葬儀で「二つのことを教えて頂きました。一つは「死は時と場所を選ばない」ということ。「何も気ぜわしい大晦日に亡くなることはなかろ」という人がおられるかもしれない…だが、「人が死ぬ時」とはこういうことだ。いつ何時この命が終わるかもしれないということ。
二つには「人は死ぬ頃合いが分かる」ということ。前前坊守様は曾孫さんの誕生を見届けて、本堂の御内陣が改装されるのを見届けて往かれた。これでいい…と言わんばかりの最期だったらしい。
自分にもいつか「もういいよ、還っておいで」という時がくるだろう。その日まで、御恩報謝で仏事をさせて頂けるよう、新年のご法話を心に刻み、日々を励みたい。(1.1)