現在の浄土真宗本願寺派清水山宝林寺
宝林寺は明治二十六年六月二十八日、藤岡主税の厚東村から小野村へ転することによりて縁起する。当時厚東村引地に照明寺あり、住職を藤岡教恩と申し、主税の祖父にあたる。教恩死去の後に、その長男であり、主税の父にあたる藤岡晴雲が照明寺第十世住職を継職す。しかし、晴雲は短命にして環浄す。本来十一世を継職すべき主税はいまっだ幼年のため、主税の成人までの一時の便宜に晴雲の弟の聞寿丸が照明寺十一世を継職す。しかるに主税成人の後にも住職の継職はなされず、主税は長い部屋住の生活を余儀なくなれた。
照明寺門徒中にはかかる主税の不幸な境遇に同情するものが多く、血脈法統を伝統とする浄土真宗の立場からも主税をこそ住職にすべきであるという声がたかまり、主税を住職として新寺建立の機運が盛り上がった。そして、法統の苦労によって、阿武郡嘉年村から廃寺になっていた「宝林寺」の寺号を求め、本堂は萩の安之郷と申すところにより廃寺を買い受け、ここに主税を住職とするながい歴史をもつ「宝林寺」が新しく蘇ったのである。当時のことゆえ、萩から小野の地まで、本堂の伽藍一式を移送する労苦は容易なものでなく、まさに門徒一同が一丸となってこの事業にあたったのである。
主税はその後晴詮と改名し、清水山宝林寺の第十一世住職を継職した。この地に宝林寺が建立されたのは初代であるが、しかしその寺号の歴史をたどるならばまさに十一世にあたる。寺号を譲り受けるということは、その寺号に歴史をすべて受け継ぐことである。よって、ここで晴詮が宝林寺十一世を名乗ることは当然のことである。
宝林寺はその後第十二世晴導、第十三世幸晴と継職され現住職第十四世藤岡幸雄に法灯が継がれて今日に至っている。