第1回 他力本願とは何か?

   他力本願で救われるのなら、別に聴聞したり、念仏を称えたりしなくてもよいのではないか。

 

 よく世間では、自分では何の努力もせずに、他人の力を当てにして事を成そうとする時などに、他力本願はいけない、などと申します。こういう依存主義というのでしょうか、自分以外の力にたよって、楽をして目的を達するようなことを称して他力本願と呼んでいるようです。このような世間的な理解に影響されてでしょうか。ご門徒の方の中にさえ、他力本願

なのだから、聴聞したり、お念仏を称える必要はないのだという人がいます。

 ですが、本当にそうでしょうか。浄土真宗でいう他力本願とは、世間でいう依存主義と同じなのでしょうか。もちろんそんなことはありません。浄土真宗の他力本願は世間でいうところの依存主義とは似ても似つかないものです。

 さて、他力本願、他力本願と申しますが、一体他力本願とはどういうことでしょうか。まず他力というのは、自分の力ではないということですが、それでは誰の力かと申しますと、これは申すまでもなく、阿弥陀如来の本願力の力であります。

 次に他力本願の本願というのは何かと申しますと、これは阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩たりし時に建てられた四十八の誓願のうちの第十八番目の願文をことであります。

「たとえわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我国に生まれんと欲(ねが)ひて、ないし十念せん、もし生まれずんば正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法を除く」

というものです。ですから他力本願というのは、どうしても衆生を救いたいと起こされた阿弥陀如来の願いだということになります。

本願はなぜ起こされたのか

 では、阿弥陀仏はどうしてこのような願いを建てられたのでしょうか。それはどうやっても我執を離れられず、煩悩に満ち満ちて、一片の清浄心もないこの私がここにいたからであります。自らの力ではとても仏になることのできない私をあわれみたまい、なんとしても救い取りたいと願われたのが、この願です。

 ここまでの話は皆さんもすでに何度かお聞きになられていることでしょうから、特に何も目新しいとも思われないかもしれません。そして、こうしてお話ししてみると、でも、結局は自分の力では仏になれないから、阿弥陀様に助けていただく以上、それはやっぱり形の上では、他人まかせであり、依存主義といえるのではないか。そういうお考えをお持ちかもしれません。ですが、ここにこそ他力本願を誤解してしまう落とし穴があるのです。

 というのは、一つには阿弥陀如来の救済を信じて救われる教えだから、自分たちは何も求めないでも、なんの努力もしないでよいのだという冒頭に挙げた誤解です。そして、もう一つは真剣な求道の努力も、自力のはからいとして退けてしまう誤解です。そしてその結果、何もしないのが他力本願だという世間的理解に陥ってしまうのです。

 

 後生の一大事の解決は一人ひとりの問題

  しかし、問題は、この阿弥陀如来の本願を信じるということです。知識として頭で弥陀の本願を理解するというのではなく、自分自身の腹の底へどすんと落ちるように理解しているかということです。理屈の上で、ああ、信じればよいのだ、はい、それでは信じましょうというような信ではないのです。表面的に信ずるとか信じないとかいうことではなく、自分の全体をかけて信ずるという生死をかけた信です。果たして私たちはそういう信をしているでしょうか。

 私たちがこの弥陀の本願を信じる(信じるというのは、阿弥陀様のお心に疑いが晴れる、南無阿弥陀仏の六字のおいわれがわが心に明らかになって、如来さまのお救いにはからいを捨てておまかせするということです)ためには、自分の生死の問題(後生の一大事)を真剣に求めるということがなされなくてはなりません。私たちは、本当にそれをしているでしょうか。

 私たちはともすれば、そういう生死の問題はすでに親鸞聖人が求められて、自力の不可能なることをお示しくださったのだから、とにかく聖人のご苦労に感謝して有難くこの本願の救いにあづかったらそれでよいのだ、と考えがちです。なるほど、そう言われればそうかもしれません。もし、生死の道を親鸞聖人と同じように自らも体験しない以上は、本当に他力の道が開かれないとしたら、私たちは親鸞聖人のご苦労を無にして、一から始めなくてはならないでしょう。

 しかし、ここで忘れてはならないのは、そうだからといって親鸞聖人の生死の問題は親鸞聖人個人の問題であって、聖人の得た信は親鸞聖人一人の信であるということです。私たちの信ではないということです。弥陀の救いにあずかるためには、私たち一人ひとりが、阿弥陀様のお心(他力回向の信心)をいただかなくてはならないということです。その限りでは、私たちも聖人が歩まれた後生の一大事の解決の道を歩まねばならないのです。

 

 親鸞聖人の開顕くだされた阿弥陀仏の他力の道を歩む

 ただ、親鸞聖人はご自身の体験を通して、自力聖道門の困難なることをお示しくださいました。そして阿弥陀仏の他力浄土門こそ一切の衆生が平等に救われる唯一の真実の教えであることを明らかにしてくださいました。私たちはその点を深く聖人に感謝するとともに、聖人の歩まれた他力の道を自らも真剣に歩まねばなりません。その求道の道程こそ、私たちにとっての聞法です。

 浄土真宗の他力本願は、阿弥陀様の大きな本願力のはたらきによって救い取られていく教えですから、その救済の構図を外側から見たときには、確かに依存主義のように見えるかもしれません。しかし、その実は、今申したように、依存主義どころか、それこそ私自身の真剣な聞法という営みがあってこそ、初めて出遇うことできる教えなのです。   合掌

                                           (2014.9.9.)